2009年11月12日木曜日

タバコ税

 民主党が政権を取りどのように変革が始まるか、ブログを更新せずにしばらく様子をみていた。
 ことの是非はさておいて、政治が変わろうとしていることは実感する。しかし予算の削減もほどほどにして増税を口にするのは努力が足りない。

 そのやり玉にあがったのがタバコである。
 元々タバコには税金がかけられていなかった。しかし明治政府は日清戦争の戦費を捻出するためにタバコや味噌など、庶民の嗜好品に課税したのである。
 タバコ税は今で言う期限立法として、戦費調達を目的としたのである。
 しかし日清戦争が終結しても課税は廃止することなく、まもなく始まった日露戦争の軍事費としてその税は課税され続けた。

 今でもそうだが、一度国会を通ってしまえば後は知らぬ間に期限延長を繰り返し、期限切れを理由に課税が廃止されたことはないが、タバコ税に関しても同じように意味もなく課税され続け、課税されて当然のような意識すら生まれてしまってきた。

 ことあるごとにタバコと酒は増税の対象として取りざたされるが、この2品目は似ているようで実は顧客が相反する立場にいる。
 酒は貧乏人も金持ちも好むが、貧乏人と金持ちとは飲酒する種類が明確にわかれている。しかしタバコは金持ちと貧乏人との品に大幅な格差はなく、喫煙者の割合はセレブよりも庶民の方が圧倒的に多い。
 ということは、タバコ増税は不況で生活苦に追い込まれている人の最期の楽しみも与えない政策だといえる。

 健康のためといかにも増税ではなく国民の健康を気遣っているようなマヤカシの言葉が耳障りだ。
 健康で長生きを願っているならば、長生きできる生活を保障する年金の支給を誤摩化さずにすることの方が先決。
 
 やるべきことを誤摩化しつつ、長生きされると保障がついていかない財政から老人が住みにくい社会を構築しつつ、「国民の健康」を口にするとはおこがましい。

 20年前、タバコの売上は3兆円あった。税金が約70%だから、2兆1千億円の税収が確保されていた。しかし禁煙運動の影響で売上は落ち続け、今では2兆円の売上で1兆4千億円の税収になってしまった。
 それを国民を誤摩化して倍の価格で販売すれば、また税収が戻るであろうと目論んでいるらしい。まさに机上の空論とはこのことである。

 私は喫煙者だが、喫煙者であっても他人の煙は好きではない。
 まして非喫煙者ならば、余計嫌なものであることはよくわかる。これは礼儀作法の問題で、タバコの売価を上げれば煙の害が少なくなるというものではない。

 みんな本筋から目を背けて、誤摩化しの手法を正当化しようとする。

 日本人の多くは今や、収入も減り食事にも事欠いている貧乏人が大半を占めている。
 その国民のささやかな楽しみを奪う事なかれ!

 長生きすればするほど生きづらい社会を放っておいて、健康を願っているフリをするな。
 本心は生産力ではなくなった高齢者は早く社会から消えて欲しいと思っていることぐらい、官僚より頭の良い庶民は察しがついている。
 早く死にたくて身体に悪いと諌めているタバコを100本口にくわえても、自殺はできない。
 車の排気管は、1本くわえるだけでおサラバできる。

 タバコの害を訴えている官庁の周りには、官僚が乗っている車が何百本も、
 排気管からガスを吐き出している。

 
合掌!

2009年10月10日土曜日

知事会という卑しき集団

 
 イギリスでも政権交代がなされるらしい。
 次の政権を担う党首は言った
 「労働党の残した債務を繕わなけらばならない
  そのために国民全員がその任を負う
  公務員も一定以上の給与を得ているものは
  減額する」

 日本に例えるならば
 「自民党が残した多額の債務を減らさなければならない
  そのためには火急を要しない外郭団体は解体し
  公務員の給与も減額する」
 となるだろう。
 
 昨年末から今年の年頭にかけて準備された企業のセイフティネットともいうべき融資が、中小企業を対象に用意された。計画性のないその場しのぎの政策である。
 「一息つきたい」と多くの企業が借入をおこした。
 しかしこの借入は、返済計画のない借入であり、返せる充てのない借金を増やしたにすぎない。
 「一息つけた」としても、どうやって「二息目をつくのか」余計の心配をしていた。

 好きではない政治家のひとり、亀井静香は返済の延期を決めた。
 しごく当たり前のことで、このまま放置すれば、間違いなく「倒産」「夜逃げ」「自殺」が増えただろう。銀行は抵抗したが、このままでは貸し倒れが多発することは目に見えており、返済延期は銀行が喜ぶべきである。

 いや不良債権化したらまた税金で国が救ってくれると考えているのかもしれない。
 しかし今つかわれている国のお金は税金ではなく、全額借入金である。
 歳入よりも多い支出を繰り返すのは、全額借入金を使っているのだ。

 国の財政を立て直すことが、あらたな政権の大きな仕事である。
 なぜなら長期政権の腐敗部分をあぶり出し、修正するのが政権交代の一番の目的だからだ。

 財政を立て直すには、国民の「たかり精神」をなくさないと無理である。
 給付されるお金がなくなったとしても、それは「痛みを分け合う」ことにはならない。
 国民総てが「給付」や「保障」を求めないことだ。

 全国知事会が開かれた。
 千葉県知事になったアホ健作や宮崎県知事のそのまんまが正義面をして、交付金や公共事業が廃止になることを責めていた。
 こうした発言、発想が前アホウ総理のいう「さもしい」行為なのである。

 あきらかに国が借金をしている財政状況がわかっていながら、「金くれ」と言い続けるのは「アホ」以外の何者でもない。
 知恵ある者ならば、有るものでやりくりするのである。
 自らの思考のなさをあらわにして「さもしい」発言を続ける全国知事会とは
なんという「卑しき集団」なのか。

 これでは日本は消え行くのみ........
 

2009年9月30日水曜日

面従腹反

 政権が変わってまもなく1ヵ月になろうとしている。
 「何ができるか」ではなく、「何が変わるか」を注目していなければならない。
 評論家と称する人たちは「できる」「できない」と議論を交わしているが、国民が願ったのは変革である。ならば、「できる」「できない」ではなく、「どうすればできるか」という議論をすることが大人だろう。
 自民党は新たな総裁を据えて政権奪還を目指すという。切磋琢磨するのは良いことだ。しかし自民党は党内にある諜報機関を使って民主党のスキャンダルを探し追求する方針らしい。国民の期待に応えようとする民主党の動きを阻止しようとすることになる。
 見方を変えると、国民の期待そのものを阻止することだ。国民が望んでいることが理解できなくて政権奪還できると思い込んでいること自体、古き体質から変わっていない証だ。
 散々スキャンダルにまみれ誤摩化してきた政党が、何をか言わんやである。
 他党のあら探しをする時間とゆとりがあったら、その諜報機関を活用して国民の願いをまとめなさい。それを実行するというならば復権のチャンスはあるだろう。

 自らが悪いために破れたと理解せず、民主党が人気があったから負けたと思っているから「顔」を変えれば復権できると短絡的にしか考えない。その結果が谷垣総裁となり、旧態然とした事なかれ主義政党のままだ。

 JR西日本が事故調査報告書を事前に入手し、国民を誤摩化す工作をしていた。事故をおこした当事者と調査機関が同じ穴の狢(むじな/たぬき)ならば、起きるべきして起きた不祥事。最初から襟を正す考えなんてなかったんだ。
 当事者は頭を下げた。「二度とこんなことが.....」。
 数日後同類の誤摩化しが発覚した。
 当事者は頭を下げる。「二度とこんなことが.....」。
 何度目が二度目なのか、これが腐敗した政治と官僚、政府系会社の構図である。

 こうした態度を面従腹反という。
 マスコミの取材に対して殊勝な態度を見せていても、腹の中では「何が悪い!」と思っているから、同じ言葉を何度口にしてもその場だけ。

 芸の無い芸人と呼ばれる連中がテレビの画面で騒ぎまくる。クソ面白くもない内容で放送を続けるのは「省エネ」を訴えているマスコミの言葉に反する。
 そんな連中は早く画面から消して、「ごめんなさい」番組をつくれば良い。
 毎日毎日誰かがどこかで「ごめんなさい」を繰り返している。
 それだけで十分番組が構成できる。彼らの「ごめんなさい」をランク付けしよう。
 面白さと正直度をランク付けすれば、ニュースの「ごめんなさい」も
もう少し楽しくなるだろう。




2009年9月9日水曜日

いやしき沈黙

 民主党はアメリカ一辺倒ではなく、近隣との友好を外交の柱にしようとしている。
 「遠くの親戚より近くの他人」というが、近隣諸国は肉体的にみて「近くの親戚」であることは間違いない。
 敗戦後64年間、日本はアメリカの占領下にあり続けてきた。
 政権交代によって、やっと独立国家を目指すことができるのだろう。外交の基本は敵対するのではなく「対等」であるべきだからだ。

 近隣諸国と仲睦まじくしてこられなかった理由は、戦争にあった。
 敗戦によって孤立化した日本の弱みに付け込んで、アメリカがチョコレートとチューインガムと一緒に「優しい言葉」を投げかけ、日本は孤立化した不安から自分を誤摩化すために、その言葉を後ろ盾にして、国際社会で存在価値を築こうと、なりふり構わずアメリカに媚を売り続けてきた。
 民主党政権の追求を待つまでもなく、「非核三原則」の誤摩化しも、知る人ぞ知る周知の事実である。これもアメリカに媚を売ってきた一つなのだ。
 この件に関して言えば一番の問題は、国民を誤摩化し、世界を誤摩化しながら、「非核三原則」に貢献したとしてノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作の存在である。

 世間を誤摩化しながら、いかにも「平和の使者」と振る舞った佐藤栄作にたいし、厚顔無恥な嘘つきとして大いなる恥を感じる。遺族はノーベル賞の返還を申し出ることが多少の罪滅ぼしといえる。

 権力者は国民を騙し、利用し続けてきたのだ。


 NHKテレビが3回にわたり、水交会(旧日本海軍の親睦団体)の反省会(戦争の原因、責任を話し合う)における記録テープを公開・検証した。
 出席者は将・佐クラスなど軍令部のトップや、その周りにいた人たちで、この反省会は131回にわたって開かれている。

 私は敗戦処理で、どうも腑に落ちないことが幾つかあった。
 それは、
 極東軍事裁判で絞首刑になったのは陸軍だけで海軍関係者が一人もいないことと、B・C級戦犯(命令に従い実行した者/A級戦犯は命令者や作戦責任者)として死刑になった人が多すぎることであった。

 その疑問がこの反省会の記録テープから明らかになった。
 そこには、
 海軍のトップが責任を陸軍に押し付けたことやその手法、前線における事件は上層部が指示していないことにするための証拠隠滅方法などが、こと細やかに証言されていた。
 またその誤摩化しを裏付ける証拠の文書も見つかっていた。
 敗戦後責任逃れを目論んだ海軍の主導部は、前線における事件はすべて当事者が勝手におこなったこと、特攻隊は命令したことはなく、すべて隊員が自発的に行ったと、否定したことが記録に残されている。

例えば、
 水戸海軍少将は捕虜の虐殺を口頭で指示したが現地の責任者が「そんな重大なことは文書がないと実行できないと拒否した。そこで渋々命令書を作成して実行させたことが軍事裁判で審理された。
 出席した水戸少将は「これは誰かの偽造である」と反論し、自らは逃れ、命令に従った兵士が死刑になった。
 「あれは水戸少将の偽証である」と裁判での作戦を担当した元大佐の証言 等々。

 私はB・C級戦犯として処刑された多くの人たち、また特攻隊員として死に赴かされた少年たち多くの、最後に残した手紙(遺書)を見ている。
 軍令部の幹部が責任を逃れ、生き残るために彼らは騙された。
 反省会に出席して過去を暴いた指導部にいた連中はみな、90前後まで生きている。

 軍関係者や政治家が靖国の森に参詣するのは、騙した若者に対する罪滅ぼしなのか。

 この反省会の記録テープで新たな事件を知った。
 中国さんとう島(香港の南側に位置する)に日本軍が航空基地をつくるとき、邪魔だと言って島民約1万8千人を虐殺したという。この事件は知らなかった。
 その現場に立ち会った大井元大佐の証言は生々しく、死臭が画面から漂う気配すら感じた。

 出席者の一人は言った、
 「なぜ日本人があそこまで残虐になれたのか
  戦争とは恐ろしい」

 「戦争の事実を語ってはいけないと
  箝口令が敷かれていた
  それを守ってきたこの半世紀の沈黙は
  いやしき沈黙であった」

 そのいやしき沈黙が破られた今、日本はアメリカの占領政策から脱却しようとしている。


2009年9月4日金曜日

敗軍の将自己弁護に徹す

 古人曰く
 敗軍の将多くを語らず

 自民党が敗れた。民主党に敗れたのではなく、自らの驕りに敗れたのだ。
 今回の選挙は無血革命と言っても言い過ぎではないだろう。

 自民党の立候補者は「お願いします」「国政の場にいかせて下さい」と繰り返し土下座する。民主党の候補者は、何をやりたいのか、それをやらせて欲しいと訴える。
「土下座して横を向いたら舌を出し」狂歌でもあるまいに、こんなことを繰り返して当選できると思っているのが、社会が見えていない証。
 案の定土下座した山崎や野田は落選した。選挙民が拒否した人を当選させる比例制度は選挙を否定した反民主主義である。

 自民党の総裁は選挙期間中も自らの不徳を顧みること無く、敵陣を罵り続けた。テレビで自民党のコマーシャルが流れる度に票が減っていったという。
 その総裁、選挙に負けても相変わらずヒョットコ顔で、自己弁護と正当化を繰り返した。
 女々しいかぎりで見るに耐えない。

 明治維新で活躍した西郷隆盛は言う
 「天の道(正しい政治)を行う者は
  天下こぞってそしっても屈しない
  その名を天下こぞって褒めても
  奢らない」

 「天を相手にせよ 人を相手にするな
  すべてを天のために成せ
  人をとがめず
  ただ自分の 不足を顧みよ」

 末代までも名を残す賢人と、青筋立てて自己弁護を繰り返すこの人間性の違い。
こうした人物が日本の政にかかわっていたことは
歴史に残る「恥」である。

 マスコミも面白おかしく政権交代を取り上げるが、
不安をほじくるのではなく、可能性を期待しなければ
いつまでたっても本当の民主主義は育たない。
 まるで昨今の報道番組をみていると、若い政治が育つことを否定しているようにすら感じる。
 ここぞとばかりにマニフェストの実行力を批判しているが、政権が交代することによって得られる一番のメリットは、「隠されていた膿」が吹き出ることだ。

 企業において人事異動をなぜ繰り返すかというと、「不正や未処理」を未然に防ぐためである。
 これは政治においては最も必要とされる浄化手段であるはずなのに、その期待に触れたコメントは聞かれない。

 アメリカが一斉に警戒するコメントを出した。
 日本が当たり前な国家になろうとしている現れである。
 今までのように占領政策の延長ではいかなくなったから、北朝鮮などを引き合いに出して脅しにかかっているのだ。
 
 アメリカの文化、音楽、映画によって育ってきた世代として、アメリカは永遠の憧れである。アメリカ人の友人も大勢おり、訪米する回数も多い。しかしその政策は黙認することができない。

 若者はミスがあって当然。失敗を繰り返して成長する。
 政党も同じで、ミスを追求してばかりいたら、その目は育たない。

 小沢の影響についてとやかく言われているが、小沢が主導して何が悪いのか?
 個人的には好きではないが、選挙の大勝は「小沢なくして」可能であったかとなると、疑問である。
 誰の影響力が秀でていても、そんなことは関係ない。
 大切なのは、誰が牽引したにしろ、日本が変われるか否かなのだ。


2009年8月28日金曜日

上杉鷹山に学べ 4

「施して浪費するなかれ」

③で記したような人事で行政改革に着手した鷹山は、同時に財政の立て直しのために、産業改革にも取り組んでいた。
 ポイントは二つ、「領地に荒れ地を残さないこと」「民の中に怠け者を許さないこと」である。そして奥向き費用(自らの給与/生活費)は再び50両の削減を行い、浮かせたお金を産業推進のために充てた。
 若き藩主は、
「わずかな資金でも長い間続けるならば巨額に達する」と言い、他界するまで50年間やり通した。(逆の言い方をすれば、今の政治のように無駄金を使い続ければ、長い期間には巨額に達するのである)

 鷹山の倹約はケチではない。
 「施して浪費するなかれ」(財政立て直しに必要なところには投資し無駄遣いはしない)に徹していたのである。

 そして社会と道徳の改革も行った。
 東洋思想の美点の一つは、経済と道徳を分けない考え方にある。
 「賢者は木を考えて実を得る
  小人は実を考えて実を得ない」
 武士も農夫も共に従わなければならない「人の道」に導いた。

 こうして枚挙にいとまが無い多くの努力を繰り返し、国を再生していったのである。

 あと数日で衆議院選挙の投票日を迎える。
 代議(国民の代理として)を選ぶ日であるが、選ばれた人は代議ではなく代党となって、民の声が届かなくなってしまう。

 その中でも少しでも将来に希望を持てる国にするために、誰かを選ばなければならない。
 その基準に鷹山の取り組んだ改革が参考になれば良い。

 最後に鷹山の家庭観を記しておこう。
 「自己を修める者にして
  はじめて家を治め
  家を整える者にして
  はじめて国を統治できる」


(この項は内村鑑三著「代表的日本人/英文」を和訳した鈴木範久の原稿を出版した岩波文庫から引用・参照しています)

2009年8月26日水曜日

前の衆議院選挙で自民党は勝っていない

 前の衆議院選挙で自民党は大勝したといい、その後二院制を否定するかのごとき行動をとり続けたが、この選挙で自民党は勝っていない。
 勝ったのは「自民党をつぶす」と言った小泉純一郎である。
 その「自民党をつぶす」という言葉に、新たな資本主義政権の出現を期待した有権者が投票したのであり、あの得票数は「自民党よさようなら」という国民の意思表示であった。

 しかし、その小泉純一郎も任期を全うすること無く首相の座を下り、続く阿部や福田など短期で投げ出す首相が続いて、国民は無責任と言った。そしてバカな輩は、もう一度小泉を!と言い出した。小泉なら選挙に勝てると思い込んでいる。
 自民党をぶっ壊すことをうたいあげて集票した人物を自民党の顔にすれば自民党が勝てると短絡に考える者をバカといってなにが悪いのか?

 無責任宰相のトップは小泉なのである。
 自民党をぶっ壊し、新たな資本主義政権の出現を期待した国民の期待を裏切って何の責任も感じていない。
 
 今年の前半は「バカ」がブームだった。
 テレビの高視聴率番組は「バカ」を寄せ集め、その「バカさ」に冷笑した。
 その代表がヒョットコ首相だった。

 ヒョットコが表舞台から去ると同時に「バカ」ブームは消えるだろう。
 やはり人間の魅力は、
 聡明な頭脳と相手を思いやる優しさだからだ。

上杉鷹山に学べ 3

(上杉鷹山に学べ 2の続きです)

 善政を行うには優秀な人が必要である。官僚の渡りを禁止したり規律をきつくすると優秀な人材が集まらないという輩がいるが、こうした目的を餌として集まる人材は、何に対して優秀なのか理解に苦しむ。
 鷹山は優秀な人材をどのようにして集めたのか、以下に記す。


 適材適所なくして善政は布けない。
 能力のある人材に対しては、乏しい財政から惜しみなく手当を支給した。
 その立場は3つあり、ひとつは郡奉行(地方自治体の首長)であり、彼らに対して次のように指図した。
 「赤ん坊は自分の知識を持ち合わせていない
  しかし母親は子の要求をくみとって世話をする
  それは真心があるからである
  真心は慈愛を生む
  慈愛は知識を生む
  真心さえあれば不可能なものは無い

  役人は民に対して母のように接しなければならない
  民を慈しむ心があなたにあるならば
  才能の不足を心配することはない」

 今でいう学歴よりも人間性で優秀か否かを見極めたのである。

 第二の役目は教導出役(民を教育する立場)であった。
 彼らには、
 「地蔵の慈悲を持ち
  心には不動の正義を忘れるな」

 教育の無い民を治めるのは手間がかかり効果もあがらないと言って、すべての人々に「生命と温かい血を通わせた。
 だが教育も規律を欠ければ効果が上がらない。

 そこでみっつ目の役目は廻村横目(警察制度)を制定。
 「警察である廻村横目は
  閻魔の正義、義憤を示し
  心には地蔵の慈悲を失うな」
と指示した。

 この制度は5年間、何の妨害も受けること無く機能し、領地には秩序が現れはじめ、絶望視されていた社会にも回復の希望が蘇ってきた。
 しかし、
そこへ最も手痛い試練が訪れた。
 保守派が台頭してきたのだ。旧態にそのまましがみつく人たちで、改革にはどんな形でも反対する連中である(現代の官僚たちと酷似している)。

 彼らは若き藩主に詰め寄り、新体制の即時撤回を求めた。
 しかし鷹山は彼らには答えず、その判断を領民に求めた(現代でいう選挙に問うのと同じ)。
 民の声は改革を求めていた。
 鷹山の腹は決まり、反対する重臣7名を呼び言い渡した。

 5人は所領の半分を没収し無期閉門(給与を半額にして自宅待機)、首謀者の二人は武士の作法に従って切腹を言い渡した。

 こうして保守派と不平派は一掃され、藩政は大きく好転しはじめた。

 続く

(この項は内村鑑三著「代表的日本人/英文」を和訳した鈴木範久の原稿を出版した岩波文庫から引用・参照しています)
 

2009年8月25日火曜日

上杉鷹山に学べ 2

 (上杉鷹山に学べ 1 の続き)

 17歳で九州の秋月家から上杉家に養子に入った鷹山は、破綻している財政の立て直しのために一生を費やした。
 権力者とその子弟たちが特権階級に甘んじ、その結果部下や領民に対する義務も、自分に力と富が与えられている訳も忘れてしまっている時代である。(今と全く同じといえる)

 人間は変革に対しておのずと抵抗するものである。しかし若き鷹山は変革を成し遂げなければならなかった。それ以外、領民を救済することは不可能であった。
 (すぐに増税を考えるのは鈍らな治世者である)
 しかし変革は他人を待つのではなく、まず自分から始めなければならない。
 財政は最初に解決を迫られる問題であった。
 少しでも秩序と信頼を回復するのは極度の倹約しかない。

 藩主自ら家計の支出を1050両から209両に切り詰めた。(給与を約5分の1にした)
 奥女中も50人から9人にして、食事は一汁一菜にした。
 家来たちも倹約をしなければならないが、鷹山自身とは比較にならない程度の倹約であった。
 家来(官僚)の手当(給与)も半分に減らし、実現した余剰金は積もり積もった負債(国債)の返済に回していった。

 この状態を16年続けることによって、負債の返済を終わらせた。時に鷹山33歳である。
 しかしこれは、まだ財政改革の消極的な面に過ぎない。
 「領民の幸福は治者の幸福である」
 「統治を間違えておきながら領民に富を期待するのは
  キュウリのツルから茄子の実を期待するのに等しい」
と、領民の財政が豊かになるよう着手した。

続く

(この項は内村鑑三著「代表的日本人/英文」を和訳した鈴木範久の原稿を出版した岩波文庫から引用・参照しています)

2009年8月24日月曜日

犯人は学校

 また名古屋でいじめを苦にして中学生が自殺した。
 灯油を被っての焼身自殺である。
 遺書から、いじめを苦にしての自殺であることがわかった。

 しかし、学校は記者会見で、
「いじめを受けていたという事実は現段階では把握していない」と発言した。
しかし昨年11月頃、少年の母親から相談を受けた学校は調査した結果、嫌がらせを受けていたことを把握している。

 毎回いじめで子どもが死ぬ度に、学校は責任逃れのために場当たり的な嘘をいう。

 今回の記者会見での発言には、ふたつの「教師の資質に欠ける」部分がある。
 まず、「把握していない」というのが正しかったら、学校における監督責任を追求しなければならない。
 学校は校門で世間と仕切られ、保護者ですらも勝手に立ち入ることはできない。
 そうした状況下でありながら、なぜ子どもを学校に預けているのかといえば、教師が責任を持って監督・保護を行うと信じているからだ。

 その保護者の信頼を裏切って平気な言葉が「把握していない」。
 ならどんな目で、校内を管理しているんだ!

 昨年嫌がらせを受けていたことを知りながら「いじめの事実は把握していない」と発言するのは、いじめた学生に対し「君たちの行為はいじめじゃないよ」と認知していることになる。
 何度も何度も、毎年毎年、学校関係者は
こうしていじめの行為者に対して「いじめじゃないよ」と認知を繰り返してきた。
 学校関係者だけでなく教育委員会も文部省も、いじめを認めないということは、その行為自体をいじめではないと認知していることになる。

 こんな繰り返しでいじめがなくなる訳が無い。
 自分さえ良ければという「事なかれ主義」が
 また幼い命を無駄にしてしまった。

 少子化対策で金をまくより、今ある命を守ることを
真摯に考え行動に移さないと、
幾ら税金使って赤ん坊を増やしても、何の意味も成さない。

 「夢のある将来」
 「希望を持って」
 若者を叱咤激励する言葉は巷に氾濫する。
 どんな言葉をかけるより、
事実を誤摩化さない大人が増えることが、若者に希望を持たせるのではないか。

 相変わらずの教育関係者の対応に
ヤジろべ〜は怒っている!!

上杉鷹山に学べ 1

 いよいよ選挙戦も終盤に突入した。
 相変わらずヒョットコは、脅威を感じる政党を批判し続けている。その言い草がフルっている。
 「あの主張はバラ撒きだ、我が党には政策がある」
 このご仁相変わらず顔を出す度に、馬鹿さをさらけ出しているようだ。
 竹下登の1億円から、つい先日の「さもしい給付金」まで、その場限りのバラ撒きしかやってこなかった自分の姿が見えていない。

 自民党、共産党、社民党、民主党etc いずれの党も、党首がしゃしゃり出るとイメージが悪くなる。特に社民党の福島は「自分こそ正義」と思い込み、他人の話を一切聞かない未熟者。
 ま、しょうがないか、彼女は弁護士出身で、弁護士って立場の人はほぼ全員が「自分は正義」と思い込んでいるんだもんネ!


 さて、日本は破綻している。
 この状況から脱却するには本当の行政改革を行う以外あり得ない。
 自民党も民主党も、二言目には「行政改革」とお題目のように口にするが、この言葉の意味が分かっていないのではないかと、疑わざるを得ない。
 信頼がおけるというか、改革を任せたいと思うのは、渡辺喜美ただひとり。
 なぜなら日本の歴史上行政改革を成功させた唯一の為政者、上杉鷹山の視点に似ているからである。

 そこで投票日までに数回に分けて、上杉鷹山の考えと行動を記していく。
 この言動と、今選挙カーから聞こえる声の内容・過去の実績を見比べれば、誰を選べばよいのか、ひとつの判断基準となるだろう。

 17歳の少年が数十年の歳月をかけて改革に取り組み成し得る足跡は、低迷する会社の改革とも十二分に通じるところがある。
 そういえば石川遼クンも17歳だな!
 17歳という多感な世代に与える刺激によって、その人の人生が輝くかくすむか、瀬戸際にあると思える。

 さて、
 以下内村鑑三の記した英文による「代表的日本人」を元に、鈴木範久が和訳し岩波文庫が出版している「代表的日本人」から抜粋引用する。


『上杉鷹山に学べ その1』

 ☆ 内村鑑三は上杉鷹山の功を例えて「治世は力でなく徳で行え」と説く
○ 私どもには進んだ政府機関があるにもかかわらず、天国におよばない点では、10世紀前の祖先の時代と少しも変わりないようにみえます。

○ .....むろん、いかなるかたちでも圧政政治はいけません。しかし投票箱のなかには、およそ圧政政治と名のつくものは全然入る余地がない、などと考えるのは軽率です。

○ 治世は制度ではなく、徳で行わなければなりません。いや、徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ邪魔であります。「進んだ政府機構」といいましたが、それは人を助けるためではなく、どろぼうを捕らえるためです。思うに代議政体は、一種のすすんだ警察組織です。
 悪党や泥棒はそれでうまく抑えられるが、どんなに大勢の警察をもってしても、ひとりの聖人またはひとりの英雄に代わることはできません。
  
続く

2009年8月22日土曜日

なぜ不安になるのですか?

 どこの講演会でも最初に問いかけることがある。
 それは、
「みなさん不安ですか?
 なぜ不安になっているのですか?」

 すべての人が先の見えない状況に不安を抱いている。
 不安を抱くと、心に大きな隙間が生じる。
 その隙間を狙って、よからぬ輩が入り込もうとする。
 それは、
宗教団体であったり、占い師であったり、一発儲けに誘う詐欺集団であったりするのだが、政治のキャッチフレーズも、国民の不安につけ込んでその感情を煽り続ける。

 なぜ不安になるのか。
 その答えは簡単で、「今が守れなくなるかも知れない」と思うからだ。
 乗っている車、勤めている会社、家族の笑顔....それらを失うかも知れないと思うから不安になる。

 なくなればまた一からやり直せばよいと開き直ったとき、不安はなくなる。
 どんなモノでも元々はなかった。
 すべてをなくしたとしても、それ以上なくなるモノはない。
 守ろうとする意思が、すべてをダメにしてしまう。

 無くすのが怖いって?
 日本は過去、すべてをなくした時があった。
 64年前の8月15日だ。
 すべてのものがなくなり焼け野原に立った人たちは、今よりももっと明るい顔をしていた。
なまじっか幾ばくかのモノをもった時点で笑顔が消えたのだ。

 守ろうとしなければ、騙されることもない。
 不安がなくなれば、
言葉の、表情の、文章の、
真実が見えてくる。

 何よりも、
笑顔が戻ってくる。
笑顔はマイナスの要因を寄せ付けない最高の鎧となって、
身を守ってくれる。

 不安顔の人は騙しやすいが、笑顔でいる人を騙すことはできない。

 自分を守るため、不安をなくそう。
 大いなる希望を持って開き直ろう。
 それは、
「今」を守る考えを捨てることによって、誰にでもできる。

 不安がなくなると笑顔が戻る
 どんな人でも笑顔は素晴らしい

 素晴らしい笑顔で、日本を埋め尽くそう

 「嘘で固めた選挙公約」は立ち入る隙がなくなってしまう 

2009年8月21日金曜日

真面目さはいらないのか

 巷では弱小企業の後継者不足が大きな問題となっている。
 ある日テレビで事業を引き継いだ2代目を特集していた。
 彼は親父との会話を思い出しながら話しだした。
 「事業がうまくいかなくなったとき
  冗談まじりに親父に言ったんです
  宝くじでも当たれば窮地を脱せるのにね」
 「親父は血相変えて言いました」
 「事業の運営にばくちを口にするのは
  もってのほか」

 番組がきれてコマーシャルになった。
 画面には俳優とお笑いタレントが大写しになり
 宝くじの宣伝が始まった。

 テレビのコマーシャルを見ていると、FXなどゼロサムゲームへの誘いやパチンコや宝くじ、競馬や競輪、競艇、そして銀行系高利金融の宣伝が大勢を占める。
 こんな国が他にあったら教えて欲しい。

 バクチを公認しているアメリカですら、バクチの広告は規制されている。
 「公共の電波」と言われる放送で、
 宝くじなどあてにせず真面目に働けと諌めた番組のスポンサーは、宝くじ。

バクチを奨励していると思わざるを得ない国の国民が、
真面目さは「カッコ悪い」と思うようになり、短絡的に自己の欲望を追求するようになっても当然の報いと言えるだろう。

この国の病原菌は根が深い。

 時代遅れといわれても
 この言葉が好きだ

 「耕して天に至る」

外国語を多用する場合

 日本の言葉は種類の多さで抜きん出ている。
 これは直接的な言い方だけでなく、インを含んだ気持ちを表現できる世界にも類を見ない言語と言える。
 その素晴らしい文化を持つ日本の官庁が公表する文書に、英単語が多用されるようになって久しい。
 
 中国に住む20年来の友人(女性)が寄せる手紙は、日本人以上に日本語の基本に則り、きれいな日本語を、きれいな文字で書いてくる。彼女は30代半ば、日本に留学したことは無い。

 それに反して、日本で生まれ育ち、日本の高等教育を受けてきたであろう官僚たちは、なぜ公用文書にまで外国語を多用するのだろうか。
 60数年アメリカの占領下に等しい状況が続いているからではない。
 そこには「誤摩化し」があるからなのだ。

 言葉の解釈に幾通りもあったのでは、その言葉は信頼されない。
 しかし国の骨幹に関わる問題が表面化すると、為政者は憲法の解釈ですら、「文言で表記されている以外」の捉え方をして自らを正当化(憲法違反ではない)してきた。
 自国語(公用語である日本語)ですら、勝手に解釈をかえてしまうのだ。

 いや
 勝手に解釈を変えているというのは、間違いかも知れない。ならば言い換えよう。官庁には国民が使っている国語辞書とは別の辞書「官庁辞書」があって、それに基づいて解釈しているのだと。
 とすれば、義務教育で行っている国語の勉強は、国が率先して国民に嘘を教えていることになる。

 そうした国の官僚が外国語を挟みこんで声明をだしたり、公式文書を作成するのは、その部分(外国語表記)を国民に知られたくない、すなわち追求された時にどうでも解釈できる言葉を選んでいる。
 言葉の少ない英単語ですら、ひとつの単語で幾つかの意味をもつ場合があるから、国民を誤摩化すには持ってこいの言葉になるのだろう。

 最近やたら耳にするのはマニフェスト。
 日本語で話す日本人が、日本の政治に関わってもらいたい。


2009年8月19日水曜日

井戸塀政治家

 意味も無く、満面笑みを浮かべたポスターが躍る。
 衆議院選挙の立候補者だ。
 今、笑っていられるトキなのか?

 『お願いします」と繰り返す騒音が扉の隙間から部屋に侵入する。
 お願いしたいのは国民のほうだ。


 30数年前韓国ロビーストとして著名な参議院議員がいた。
 議員になる前は産經新聞の政治記者だった。
 記者時代は杉並区和田にある平屋の小さな都営住宅の住民だった。
 ひとり娘はバレリーナで、親交があった。

 その娘からホームパーティへの誘いがあった。
 二期目に入った議員の住まいは、武蔵野・御殿山の高級住宅に移っていた。
 アメリカやイギリスのバレー関係者も参加しているパーティの途中でその娘が声をかけた。

「みなさん庭に出て下さい
 スワンの形をしたシュークリームが飾られていますから
 お好きなものをお食べ下さい
 その中のふたつには
 ダイヤモンドが隠してあります
 注意して食べて下さい」

 これを機会に、この家族の誘いは一切断っている。


 昔は資産家や有力者が政治家になった。
 しかし辞める時には「井戸と塀」しか残っていないと言われた。
 清廉潔白な人物が私財を投げ打って国のために尽くしたのである。

 今は県営住宅から立候補し、引退する時には大御殿に暮らしている。
 これも「金とモノ」にしか価値観を持たなくなった結果なのか。

 どんなに時代が変わろうとも、
小生が憧れ尊敬してやまない政治家は、田中正造(後日記す)ただひとりだ。



 自民党は安全保障の問題とそれに関わるアメリカとの関係を論点としょうとしている。
 ここでもいつものテーマを投げかけよう。
 「忘れることによって失敗は繰り返される」と。
 義和団事件で追求の中心的人物であった、イギリスの総督の日記に残されている。

 「我々が庇護する国が危機にみまわれたならば
  我々は自分の利益を優先する」



 人は自分の目でしか、世の中をみない
 幾つもの目で世の中を見ることのできる人に
 日本の未来を託したい
 

2009年8月16日日曜日

戦後処理は終わっていない

 64回目の敗戦日を迎えた。
 戦争従軍者や戦争体験者は、総人口の24%となった。
 「もはや戦後ではなくなった」と、時の総理が口にしてから30数年が経ち、平和の尊さがわからない世代が街に踊り、政治屋は危機を煽って再軍備を訴えだすように、日本は様変わりをした。

 五・一五事件の首謀者のひとりである三上卓は、蜂起に至る世相を嘆いて、
 『権門上に おごれども
  国を憂う 誠なし
  財閥富を 誇れども
  社しょくを思う 心なし
  

  ああ 人栄え 国亡ぶ
  めしいたる(目の見えない)民 世に躍る
  治乱興亡 夢ににて
  世は一局の 碁なりけり』
と歌に記した。
 今、全く同じ世相を呈している。
 これは国が存亡の危機に直面していることである。
   なぜ日本人は体験学習が下手なのだろうか。


 いつまでも何かにこだわっていると「しつっこい」とか「蛇みたいな性格」と言われるが、だからこそ「体験」が「学習」となる。
 「まあまあ」と山間部落で生き延びる術が、経験したことから目を背け「忘れる努力」に努めた結果、再び同じ過ちを繰り返すことになっている。
 それが日本という不思議な国。

 日本がこの64年間避けてきた問題に正面から取り組んだ時、「日本の戦後処理は終わった」と言えるだろう。
 終焉は時間の経過ではなく、自ら過去を認めることによる。


 64年間避けてきた問題とは、日本人による戦争責任の総括である。

 総括は
① 侵略の責任と国民を死に追いやった(300万人強)責任
② 軍部に脅され国民を騙し通した新聞などマスコミの責任
③ 戦争に加担した官僚の責任
④ 戦争という時流にのってそれを煽った国民の責任
になる。

①の侵略については某かの理由をつけて正当化する輩がいるが、
あなたの家に、あなたが招くことなく人が押し入ったら、「不法侵入罪」として訴えるだろう。国家間も同じで、どんな経緯があろうとも相手国が招かないのに武器を持って乗り込めば「不法侵入」、すなわち侵略である。

②マスコミの責任について、
敗戦後幾つかの新聞は社説で小さく、その非を詫びている。しかし今振り返ればその社説は「形式的」なものであって、決して自らの非を認めていたのではないことがわかる。
なぜならば今まさに、マスコミは当時と同じ過ちを繰り返している。
国民をバブルに煽り、景気が底をついたと嘘の報道を繰り返すことによって就職浪人を増やし、国の骨幹を危うくしながら、その責任を自らに問うことはない。

③戦争に加担した官僚の責任で一番大きいのは文部省である。
文部省は小学生に対して戦争を美化した教育を行い、中学生になると軍事教練を行う等、国民を戦争へ煽った責任がある。
 今学校教育で近代史を詳しく教えないのは、この部分に触れると自らの責任が問われることを恐れているからだ。
 その結果、正しい自国の歴史を知らない若者が増え、戦争を阻止しようとする力が失せてきている一因となっていることは否定できない。
 外国へいけばわかるが、自国の近代史を知らないことに疑問を持っていない若者は、日本だけなのだ。

④国民の知識不足が戦争を煽る力に同調する結果を招いた。
自分が勝者であり続けることはあり得ないことや、敗者の苦しみを理解しようとしなかったことが原因と言える。

 満州へ出向いた開拓団が現地の中国人に発した言葉は「おい」「こら」「ばか」の3つの言葉だといわれている。 
 開拓団の人たちはボキャブラリィがなかったのではなく、彼らが日本にいるときにかけられた言葉が、この3つだったのだ。
 開拓団に参加した人たちは、小作人や日本で生計を立てられない人たちだった。
 彼らが日本にいるときに、地主からかけられた言葉、それは「おい」「こら」「ばか」の言葉しかない。
 彼らは他人にかける言葉はこのみっつだと思っていたのだろう。
 その点では「体験学習」していたといえる。

 数日前「終戦」ではなく「敗戦」だと、正しく歴史を認識することを記した。
 敗戦だと認識することによって、戦後処理を終わらせる行動が始まる。
 
 戦争を反省するとは、今を反省することである。

 三上卓の歌は10番まで続き、次の節で終わっている(行動に移った)
 『やめよ離騒の 一悲曲
  悲歌慷概の 日は去りぬ
  われらが剣 今こそは
  廓清の血に 躍るかな』

2009年8月13日木曜日

夏が消えた

 8月7日、東京の三鷹〜八王子を結ぶバイパス「東八道路」を 東から西に向かって走っていた
 多摩霊園の手前には 左右に大きな森林公園がある

 ちょうどそこに差し掛かったときであった
 道の正面に入道雲が見えた

 入道雲を背景に 左右に分かれた森を結ぶ歩道橋を
虫取網を肩にして 少年が歩いている

 夏の風景である

 天候不順だった今年は 梅雨明けの晴れ間も少なく
初めて出会った夏景色だった

 この風景少し前までは ごく当たり前のように
どこでも見られた
 なぜ今
こんなに懐かしく微笑ましく感じるのか

 ゲームや塾通いで
子どもたちが町から消え
日本の風景から 夏が消えた


 数日前から蝉が一斉になきだした
 台風一過のわずかな夏に 自分の存在を示すかのごとく
その声は地上にこだまする

 蝉には順番があり
その声の移り変わりで季節の変わり目を感じるのだ

 梅雨が明けると同時に
一段と強まった日差しを木陰にまで運んでくるのが
ジージーとなくアブラゼミやミンミンゼミ

 この声を聞くと いやでも真夏の訪れを意識する

 立秋を過ぎると ジージーとなく声に混ざって
日差しが陰る夕方には
ツクツクホーシ ツクツクホーシと
ツクツクホーシがなきだし 夏休みの終わりを告げる

 ツクツクホーシがなきだすと
子どもたちは日焼けした身体で机に向かい
一斉に夏休みの宿題に取りかかる
 
 昔から変わりない 風景だった

 ツクツクホーシの声が弱まったころの夕方
もの悲しい声が木々を渡る
カナカナがなきだす頃になると
夕方の風は秋を運んでくる
 夕焼けは落ち着いた赤さになり
木々が夏の輝きを無くす



しかし
数日前から一斉になきだした蝉には
時間の流れを教えてくれる順番がなくなってしまった
 ミンミンとツクツクとカナカナが
一斉になきだしたのだ

 そういえば今年は
夏らしい夏日が続くこともない

 温暖化で地球自体の温度が上がり続ける一方で
母なる太陽は活動を弱め
 地球は小氷河期を迎えるという

 聞き流している蝉の声も
夏と秋が混同している

日本の風景から夏が消えていく..........

2009年8月9日日曜日

覚せい剤

 アメリカの麻薬取り締まり当局は、アジアで一番大きな麻薬マーケットは日本と認知した。
 酒井法子関連の容疑も根が深いとみる。
 芸能界と麻薬の関係は何度検挙されても途絶えることはない。

 麻薬は人生をダメにするが、日本が国家として麻薬を利用した時期がある。
 それは戦争中であった。
 前回、「忘れることによって繰り返される」と記したが、歴史も忘れることによって繰り返され、忘れることによって正当化する風潮も芽生える。
 日本軍が麻薬を利用し、それによって多くの若者が死に赴いたことを忘れてはならない。

 敗戦間際、特攻隊に出撃する恐怖を払拭するために、隊員の少年たちに使われた。
 特攻隊の少年たちの追い込まれた本当の姿は、木村拓哉が映画で演じたようなきれいなものではなかった。

 出撃してそのまま死に赴いた人たちは、幸せだったかも知れない。
 それはそのチャンスが与えられなかった若者の「その後」の人生に対しての対比である。

 特攻隊員として出撃基地に集められた彼らは、その恐怖から逃れる手段として、麻薬/ヒロポンが注射された。
 出撃せずに敗戦を迎えた隊員たちは、仲間が死んで行ったにも関わらず自分が生き残っていることに自責の念を持つと同時に、正直「助かった」と思ったことだろう。
 しかし彼らは、敗戦の翌日から犯罪者扱いされたのだ。
 それは麻薬患者としてである。

 昨日まで神と崇められた少年たちは「特攻隊崩れ」と蔑まれ、ヒロポン中毒のまま社会に放り出された。
 そこから抜け出せた人も多かったが、麻薬中毒患者となり、闇ルートから手に入れて抜けきれずに廃人になって行った人たちも多かった。

 当時のニュース映画を見ると、食料統制で手に入らなくなった食料(今の北朝鮮と同じ)を、法律を犯して入手しようとする人たち(闇米運び屋と言われた)を取り締まる警察の記録ばかりだが、その裏で警察はヒロポン患者の取り締まりに躍起になっていた。

 私も幼少時に、自宅に身を寄せていた元特攻隊員がヒロポンを使用しているとのたれ込みを受けて、警察が家宅捜査にきたことを覚えている。

 自らの意思ではなく国の方針で患者にされたものに対しては、こうして犯罪者としての追求が続けられた、
 しかし、
 それを仕向けた軍部関係者に、犯罪者としての追求がなされたことはない。


 蛇足だが、
 浜松(特攻隊の訓練基地があった)に大きなやくざ組織があった。
 ここの親分は、そうした特攻隊崩れの少年たちに、生きるチャンスを与えた人だと聞いている。


 

2009年8月5日水曜日

マニフェスト

 選挙を控えて各政党はマニフェストを公表した。
 マニフェストとは公約である。

 政権政党であった自民党は、新たなマニフェストを公表する前に、前の選挙時に掲げたマニフェストについて、その実行を総括するのがスジである。
 言うだけなら自民党が民主党を攻撃する言葉を借りるまでもなく、誰でもいえる。
 政権を担った政党に継続を願うか、お引き取り願うかは、
次のマニフェストの中身よりも、前のマニフェストの実行、すなわち約束を守ったか否かにかかわってくる。

 永く都知事に居座った鈴木俊一は、その席を追っ払った青島幸男が、公約に掲げた臨海埋め立て地開発開発中止を実行しようとした時、「公約とは守るものではない」と公言した。
 
 自民党支配の都知事が「公約は守るものではない」と発言したことを覚えている人は少ない。過ちは「忘れることによって繰り返される」。

 今回初めて幾つかの経済団体等が、前の選挙で自民党が公表した公約の検証を行った。
 その結果を聞いたヒョットコ総理は、
「各自がそれぞれの基準で判断したこと」と膨れっ面。
 第三者が検証する前に自らが総括するのが、まともな人間のやること。

 良かったね! またひとつ我々に言い訳の仕方を教えてくれた。
 時を同じくして陪審員裁判もスタート。
 いつあなたが被告席に座るとも限らない。
 死刑の宣告を受けるやも知れない。
 そのとき検事や裁判官に向かって、厳かに話そう。
 「それはあなたの基準で判断したこと
  私には関係ない」

 日本をますます住みやすい国にしてくれるヒョットコ総理の
 引退を惜しむ
 
 合掌

2009年8月2日日曜日

ことば

 言葉があることによって
 自分の思いを伝えることができ
 相手の思いを知ることが できる

 しかし言葉は
 誤摩化しを伝えることも できる

 人と人との関係に
 言葉が無かったとしたら
 誤摩化すことは できない

 まだ外国人が自由に国内を散策することができなかったころ、私は中国の片田舎を歩いていた。共産主義を否定する私に偶然にもできた中国政府高官の友人による取り計らいであった。

 暑いので駄菓子屋のような店に入り、日本語で「ジュースちょうだい」と語りかけながら、ショーケースの中にあったジュースの瓶を自分で取り出した。
 空いている方の手で小銭を握りながら、また日本語で「幾ら?」と問いかけると、店の女主人は小銭から代金を取った。

 店の外の柳の木の下には縁台が置かれ、若い女性2名と初老の男性が座っていた。私はその前に立ち、また日本語で「私も座らせてよ」と言ったら、横へつめて隙間をつくってくれた。
 それから小1時間、共通の言語を持たない彼らと私は、会話を楽しんだのである。

 もちろん私は最後まで日本語以外使わないし、彼らは北京語以外話さない。
 しかし互いに、
 「こいつは悪いやつじゃない」と理解し合っていた。
 ポケットから取り出して勧めてくれるひまわりの種も美味しく頂いた。
 
 1+1=2と言ったような明確な会話は無くても、互いに心を通じ合うことはできた。
 その、
心の交流には誤摩化しがないから、友人となることができたのだ。


 まもなく衆議院選挙とやらで、互いが自分の正当性を「言葉」で訴えている。
 言葉が多くなればなるほど、そこには誤摩化しが生まれる。

 誠意には言葉はいらない。
 

 多くの国で違った言語を使っているのも、互いの言葉を理解するためではなく、
心で会話することを神様は願っているからではないか。

 なぜならそこには「誤摩化し」がなく、誠意でつながる地球社会ができる可能性があるからである。


64回目の記念日

 まもなく64回目の記念日になる。
 この記念日を日本では「終戦記念日」という。
 しかし日本が戦争をしていた相手国では「戦勝記念日」という。
 国際的には日本での表記は終戦ではなく「敗戦記念日」とならなければならない。
 なぜ敗戦日を終戦というのか。
 それは昭和天皇の言葉による。

 64年前の8月15日、昭和天皇は国民に向かって「堪え難きを耐え忍びがたきを忍び」戦争に負けたことを認めるよう詔(みことのり)を発した。
 その閣議で
 「国民を悲惨な状況に追い込む戦争は
  今日でもって終わりにしなければならない
  二度と戦争をしてはならない」
趣旨の発言をされ、その言葉をもって「終戦」と言われるようになった。
 しかしこうした表記には日本人独特のあいまいさがあり、そのあいまいさによって近隣諸国との感情的すれ違いが64年間も続いている。

 数年前テレビ朝日の時事討論番組「朝までテレビ」で、ギャラリ−で参加していた学生が「近隣諸国が何年経っても日本の戦争責任を口にするのはおかしい。いつまで謝ればよいのか」と発言しているのを聞いたことがある。
 「謝る」のは期限の問題ではなく、心の問題であり、相手が許すと思ったとき、初めてその謝罪は認められるのだ。

 ではなぜ、何かある毎に「日本は戦争賠償を行っていない」といわれるのだろう?
 それは冒頭に記した「敗戦」を「終戦」と認識しているところにある。

 日本政府は「敗戦」と事実を認識する勇気がないために「戦後賠償」という言葉を避け、「経済支援」を続けてきた。意識の中では「戦争被害を与えた埋め合わせとして経済支援を行っている」と位置づけて、戦後賠償以上の支払いを続けている。
 しかし金額で幾らになろうとも、それは「経済支援」であり、「戦後賠償」ではない。

 こうした政府の「ことなかれ主義」が、「何年経っても賠償をしようとしない国日本」となって、国際問題が表面化するごとに戦争責任に言及されることとなる。

 このままの状況では戦後何年経過しようとも、日本は国際社会の中でリーダーとなることは不可能だ。

 今からでも遅くない。
 終戦記念日を敗戦記念日と意識し、戦後近隣諸国に支払ってきた「経済支援」を「戦後賠償であった」と認めよう。それが次世代が、近隣諸国と仲良くする下地作りになることは間違いない。

 自らの欠点やミスを認めないものは昇華できない。
 ヒョットコ総理の言動を見ていればわかりやすいではないか。
 昇華する努力をしない人に期待するか?

 日本国民がヒョットコ総理に抱いている思いと同じ思いを、近隣諸国は日本に抱いている。


 昭和天皇は政治に利用された。
 満州国建設に関わった父から、「軍部に反抗するとたとえ皇帝であろうが命は保証されない」と聞いたことがある。
 昭和天皇も同じような境遇であったことは察して余ある。
 天皇家は政治に利用してはいけない。
 なのに、
 町村某という政治屋は、衆議院の解散時期が取りただされているときにインタビューに答え「カナダを外遊中の天皇陛下にご心労をかけてはならないから時期は遅れる」とのたまった。

 この馬鹿は平成のこの世において、自分の都合を天皇を引き出して正当化しようとする。
 こうした馬鹿が国会にいることが、天皇陛下のご心労となる。

 このご仁、どんな派閥の長か知らないが、暫定税率延長の際には「車が減って温暖化対策になる」といいながら、その半年後は高速道路の料金を安くするからどんどん出かけて欲しい」という。

 馬鹿がノホホンと生きていられるのも、戦争で犠牲となった若者のお陰であることを忘れてはならない。

 戦地で死に赴いた若者の多くは、戦闘に倒れたのではなく、戦地での食料不足による餓死であった。
 64回目の敗戦記念日は、形式的な式典を行うのではなく、
彼らの無念さを忘れないために、せめて1日だけでも飲まず喰わずで喪にふくそう。
 毎日生産量に近い大量の食物が捨てられている日本の礎は、
 戦地で餓死した多くの若者の悔しさで成り立っていることを
忘れないために。

合掌

2009年7月30日木曜日

100年に一度の大不況とは何ぞや

 昨年の世界的金融危機から、政府は100年に一度の大不況という。
 その不況も、底が見えた、もう大丈夫という。
 何かおかしくないだろうか?

 歴史年表を100年遡ってみよう。
 100年遡る途中、82年前の1927年には、「ブラックマンデー」ニューヨーク発の世界大恐慌があることに気づかないか?
 100年ということは82年前も含まれているのだ。

 100年に一度の大不況というのは、いつものごとく政府による言葉の誤摩化しに過ぎない。
 100年に一度ということは、「世界大恐慌以上の不況ですよ」といっていることになる。

 この大不況が政府の言う小手先だけのバラマキ政策で改善されることはなく、自民党の悪賢い選挙に向かっての国民騙しにすぎない。

 世界大恐慌から脱皮できたのは世界大戦であった。
 今この状況から抜け出せるのは、やはり「戦争しか無い」と考えている国がある。
 それはアメリカ。
 アフガニスタンやイランでは戦火が大きくならず、目論みが果たせない。
 そこで発火点は朝鮮半島を想定(期待)。

 北朝鮮がミサイルを発射しようが核を開発しようが、中途半端な態度を取っている理由はここにあり。
 アメリカにしてみれば早く、北朝鮮が戦闘行為に踏み切るのを待っている。
 よしんばミサイルを発射してもアメリカ本土に到達することはないと見ており、せいぜい朝鮮半島や日本が火の海になるくらいだと判断している。
 北朝鮮が戦闘行為に踏み切ったら、これ幸いとアメリカは第三次世界大戦へと突き進むだろう。

 中国が北朝鮮に同情的に見えるのは同盟国だからではない。
 今や中国の同盟国はアメリカである。

 中国が北朝鮮に正面切って制裁に踏み切らないのは、戦争になった場合国境から流れ込む北朝鮮側の難民に警戒しているからに他ならない。

 100年に一度の不況とやらに騙され、夏祭りに浮かれている間に、不況克服作戦は静々と進められている。

産めや増やせや/戦争中か!

 自民も民主もマニフェストを公表した。
 その中で目立つのは少子化対策である。
 これらの政策はまるで国民に「産めや増やせや」と子どもの増産を迫っている感がある。
 この言葉、どこかで聞いた覚えは無いか?
 そう、戦争中に唱えられたスローガンだ。

 戦争中は国民は武器、弾に等しく、戦死者が増えて兵力が劣ると見るや、国を挙げての大合唱となった。
 若く逞しい青年が戦地へ赴いており、残されていたのは子どもと老人ばかり。(いや権力者の子息は意識的に兵役不適格となって残っていた)
 老人や子どもを相手に「産めや増やせや」と号令をかけて、セックスを強要したのだから、これは拷問に等しい。
 戦地に赴いていた若者は食料不足の中進軍を強要されていたのだから、国内に残された老人や子どもに、拷問に近い行為を強要したとしても「前線に比べれば」との逃げ口上があったのかも知れない。

 さて、今記したように戦争中は兵器の一部として人間の増産があったが、21世紀の平和な(一見)日本において、なぜ今「産めや増やせや」と国が音頭をとっているのか。

 それは少子化によって税収等国民負担が減るためである。
 端的に言えば、
 「税金を徴収する頭数を増やせ、さもないとお前たちに負担をかぶせて増税するぞ」と脅しているのだ。

 なぜ税収が減ると困るのか。
 それは現状が維持できなくなるからである。
 じつはこの考えに、今社会が陥っている不況による不安の骨幹があるのだ。

 それは「現状を保ちたい」との欲によって悩みが大きくなっている。
 「現状」それは今の収入であり、生活、車、仕事などが保てなくなると思って不安に陥っているのである。
 国家はその不安を解消するために「増税」という一番手っ取り早い手法をとる。


 このままでは日本の総人口が8千万人前後になる危険があり、そうなれば国体を維持できないと政府は考えている。
 何とも不思議な発想だ! というよりも、この言葉で国民を誤摩化そうとしている。

 過去日本の歴史を振り返ってみよう。日本の総人口が8千万人しかいなかった時代がなかったのか? あった、いやそれよりもす〜っと少ない時代があった。
 ではその時に日本という国は存在できなかったのか?
 いやいや立派に国家は存在した。

 ならば、なぜ少子化すると国体が保てなくなるというのか?
 それは今の状況「無駄な道路建設」「無駄な官僚の渡り」「無駄な箱もの」など、国を弱体化させている官僚や政治屋の「無駄遣い」ができなくなるからだ。

 戦争中を例に出すまでもなく、国民は国家に利用されてきた。
 今また利用されようとしている。

 余計な予算を組むことはすなわち将来へ借金を残すことになる。
 子どもたちの出産、成長にお金をばらまくことは、彼らに「生まれながらの借金」を背負わすことになる。
 目先の損得だけで動かされるのは、そろそろ卒業して欲しい。

 少子化の結果国民が減ったら、その国民の数にあった政治をやれば良いだけのこと。
 おたおた、あたかも危機を迎えるがごとき言動は、考慮・配慮の無い馬鹿の振る舞いに等しい。

 中国嵩山少林寺に籠っていたとき、方丈に教えられた。
 人が苦しみ悩むのは欲を持つからである
 欲をなくすと悩みから救われる
 私が話している欲とは、性欲、食欲、物欲ではない
 これらの欲は人間が進化していくために必要なもの
 無くすべき欲は、
 「今を保とうとする」ことである
 
 元々ゼロから生まれてゼロに還る
 無くて元々、流れに逆らっては苦しむだけである

 事業の経営者が苦しんでいるのも、不況が続けば「今が保てない(倒産・廃業)」と思うからであって、「なくなれば無い」生き方をすれば、何も苦しむことはない。


 国家たるもの、自然の摂理に逆らってはいけない。
 自然の摂理に法って国家を経営してこそ、国民は幸せになれるのである。


  

2009年7月25日土曜日

バカは死ななきゃ治らないってか!

 昨日記したヒョットコが、7月25日横浜の青年商工会議所でまた性懲りも無く、アホ丸出しの発言をした。
 本人は議員懇談会で自らの発言の至らなさを詫び、おかめが同調して、共にお神楽を舞ったことを「猿芝居」と記したが、この発言を聞くとヒョットコご仁は自ら口にした「発言の至らなさ」とは何を指しているのかわからずに、誰かが書き上げた原稿を暗記して口にしただけ。

 青年商工会議所へは自民党への支援を頼みにいったらしいが、その席で、
「高齢者は働くことしか才能が無い」とのたまった。

 どうしてこうした国民を愚弄した言葉がすらすらと口から出るのだろう。
 アホと言ってしまえばそれまで。

 議員懇談会で口にも無い言葉を口にしたヒョットコに対して、同席していたオカメ連中が直ぐに追求の手を引っ込めたから、ヒョットコは「自分の発言はたいしたことはない」と罪の意識を持たないから同じことを繰り返す。
 これは以前記した「苛めがなくならない理由」と同じ構造である。

 24日深夜には「朝までテレビ」に出席した各党代表が無駄なエネルギーを使い続けた。
 あんなピンぼけな発言を繰り返すのに浪費される電気を、危険と隣り合わせに設置されている原子力発電の電力を消費されたのでは、誰がエネルギーを節約する気になるだろうか。

 自民党は過去4年間の実績を自慢するが、前回の選挙のときに国民と約束したことがどれだけ守れたかについては一切触れず、民主党のふがいなさばかり追求する。
 また民主党は、自民党や公明党が各種政策が経済の底打ちに貢献した(実際は何の意味もなしていない=下げ止めにはなっていない)と自慢していても、その費用がいかに次の世代に禍根を残すことになっているのか、追求どころか触れることもしない。

 共産党や社民党に至っては、風呂の中で屁をこいたような話ばかり。

 そして夜が明けたら、ヒョットコがまた「減らず口」。


 今夜は隅田川や立川昭和公園の花火大会。
 ヒョットコが馬鹿にする高齢者が能力を傾けて貢献してきたお陰で、
焼夷弾に輝いた同じ空で、花火が楽しめることを忘れてはならない。

あ、きっとヒョットコは高齢者に
「これ以上働くな!あとの生活は年金で面倒見る」と、言ってくれたんだな。
ヒョットコはいつも言葉が足らず誤解を招いているが、
きっとそうなんだ!

 高齢者諸君! よかったね!!

2009年7月24日金曜日

ヒョットコ

 ピ〜ヒャラ ピ〜ヒャラ
 テンツク テンツク
 おかめとヒョットコの
 お神楽の 始まりだい

 と、夏祭り真っ盛り。
 祭りは庶民の憂さ晴らしから 始まった。

 永田町ではヒョットコが、手ぬぐい冠るのを忘れて、素顔を出してひと踊り。
 ま、あの面(めん)てい見れば、お面も手ぬぐいもいらないだろう。
 よくもあれほどひょっとこ面(づら)したもんだときた。

 おかめは山形や広島出身で、手踊りには慣れていないので、今ひとつ盛り上がりには欠けるが、同じ舞台でひと踊り。
 囃子方は笛や太鼓の腕は無く、口三味線で「一致団結」と囃し立て、白々しい不協和音だけが響き渡る。

 ヒョットコとは火吹男と書く。
 自ら付けた種火を大きくするには、もってこいの人材といえる。
 吹けど踊らず...ではなかった、ヒョットコが吹けど火の手が大きく上がることはないとタカを括(くく)っていた町人は急いで消火作業にあたったが、消したと思ったらまた別の場所から煙がたち、気がつけば火の手で町が二つに分断され互いに責任のなすり付け合い。

 追い込まれたヒョットコは心にも無いことを口にして反省の体(てい)。
それを見ていた町人は「ソイヤ、ソイヤ」と囃し立て、その音頭に乗っておかめが登場!!
 そして言ってくれたネ
 「今日のヒョットコは素晴らしい」

 なんだこの猿芝居は!
 日光の猿芝居だってもっと真面目に観客の心をつかみ涙を絞る。

 猿にも劣る猿芝居を演じて、自己満足しているこのバカ面(づら)ども。

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 これほど選挙民をバカにした一幕は、神代の昔まで歴史をさかのぼってもないだろう。


 一体何のための選挙を行うのか、ヒョットコに聞きたい。
 ヒョットコの言動には、仲間に対する形式的な謝罪はあっても、国民に対する謝罪は一言もなかった。

 こんなバカな政治屋集団に期待するバカがいる。
 「民主党に一度やらしてみても良いと思うけど
  できるかどうか心配だから
  やっぱり自民党を応援するわ」

 何ができるか不安なのか?
 自分たちの「地盤」「看板」を守ることができないかも知れないと言っているのか?
 バカにはバカの上をいくバカがいる。

 なんてね!
 真剣に腹を立てると、こちとらが身体を悪くするわな!

 そういえば最近ちょっと高血圧気味。
 うっかり病気にもなれないわな、たらい回しでこの世とおさらばおさらば。

 いやその方が幸せだよって、永田町のヒョットコは教えてくれているのかも知れない。



 祭り囃子が遠くに聞こえる。
 小さな子どもが山車の上で、面白おかしく振りをする。

 

2009年7月19日日曜日

我らが手本

 迷える国民に生き方を教えてくれていた国のリーダーが、まもなく去る。
 国のリーダーたる者、国民にその生き方の見本とならなければならない。

 近年稀にみる自己欲の強いリーダーが国民に教えてくれた生き方は、「反省はするな」「自己を正当化しろ」であった。
 これほど我らの倫理に反する生き方を教えてくれたリーダーが、短期で去ることは残念だ。官僚は今までの言動に輪をかけて自己を正当化し、それが正しいことを身を以て教えてくれていたリーダーが変わることに、大きな不安を抱いていることだろう。

 我々平民も、やっと自分の言動を正当化する手法を身につけ、これから様々な悪事に手をつけようと企てていた矢先、そのお手本が消えてしまうのは不安である。

 山本五十六の「男の生き方」ではなく漫画本を手にし、スラックスの裾には重しを入れてカッコばかり気にして中身は無くてもよいことを教えてくれた結果、それを手本としてカッコだけで中身が空っぽの若者が巷にあふれている。
 彼らにとっても世間的評価が変わることに不安を持ち、リーダーがそのままリーダーでいることを望んでいる。
 それを政治家として人気があると、はき違えるアホな政治屋が消えるのは残念!

 「反省」という言葉も思考もないリーダーが辞めるのは
それを手本にしたかった善良な国民にとって、これほど悲しいことは無い。
もう少し続けてくれていたなら、子殺し、親殺し、通り魔殺人、放火、強盗の蔓延した腐りきった社会の中で、「自分の正当性」が主張できたのに残念!

 いや、そんなに心配することはない、
取り締まるべき警察は万引きや痴漢、以前にはパトカーに乗って制服のまま、意にならない女性を撃ち殺しに行ったこともあった。
こうした事件はまず隠し、発覚したら「知らなかった」としらを切る。
 彼らは自らの身を挺して、国民に生き方を教えてくれている。

 使い込みが発覚した公務員も返済すればお咎めなし。盗みで捕まったら、盗んだものを返して言おう「公務員は発覚したときに返せばお咎めなしだ」と。
 こうした言い訳を教えてくれていたのだから、無駄にしては彼らに失礼だ。

 裁判官も税務署の職員も痴漢や万引きを繰り返し、国民が裁判や脱税した時の「反論」を用意してくれる。

 子どもの教育機関と勝手に思っている学校では、苛めが発覚しても苛めは無かったとコメントし、訴えている学生には素知らぬ顔。
 この「なかった」との一言で、いじめていた人は正当化される。
 「あれは苛めじゃなかったんだ」
 
 この繰り返しで苛めが正当化されて、苛めがなくなるわけがない。なんせ、その行為は苛めじゃないんだから。

 子どもの教育を自負する学校が、こうやって社会への誤摩化し方を教えてくれる。
 子どもたちは幾何学なんぞよりよほどこうした授業の方が面白いから、吸収もはやく、こうやって社会で生き残る手法を身につけてさせてくれる。
 素晴らしい学校教育、万歳だ。


 まだまだこの国は捨てたものではない。

 そういえば今のリーダーはキャンキャンよく騒ぐな
 まるでスピッツみたいだ

 犬は自信の無い臆病な小型犬ほど
 よく吠える!

2009年7月16日木曜日

笑劇場ならぬ傷劇場

 なにひとつ笑いを提供すること無く終わった東国原喜劇。

 本業である知事の仕事は副知事に任せっぱなしで、地場産業のセールスマンに徹し、口先だけは誰かの受け売りで政治屋気取り。

 自分が座長となって幕を開けたはよいが、誰も笑ってくれないとなると、芸人師匠にゴマを擦って保護を求める。
 数多いる政治を志す人の中で、芸人を「私の師匠」と公言する者を初めて見た。

 芸人「そのまんま東」ならば、その師匠は芸人でよい。
 しかし知事という公職につきながら、窮地に立つと芸人の師匠の元に馳せ参じるのはいただけない。

 どんな偉そうなことを口にしていても、その言動は芸人の域を出ていない。
 大向こう受けを狙った日頃の言動や、コロコロ変わる態度を見ていると、
切符の売上を気にしながらフアンに媚を売る芸人となんら変わることは無い。

 その脇役を演じた自民党の選対委員長なる人物も、自らの言葉「軽薄な行動を恥じる」を聞くまでもなく、クソ真面目な顔をして観客(選挙民)からひとつの笑いをとることもできなかった。

 どんな政治環境であろうと民間に活力があって、経済が活性しているときならば、人気取りだけを目的に立候補者を決めても、国民にとってはどうでもよいことだったが、
年金等過去すべての政策が禍根を残した日本において、まだ人気取りが選挙に勝つ方法と思っているこの「バカさ」に苦笑しただけ。

 政治家になりきっていない政治屋気取りの宮崎県知事はバカを丸出しにして、全国知事会で提案したが誰も相手にしなかった。
 マスコミに登場する回数が多ければ有名知事と錯覚して、主導権を握ろうと調子に乗る。
 こうした言動を「身の程知らず」という。

 知事としての職責の上で有名になった者(例えば琵琶湖の浄化に尽力した滋賀県知事の武村氏)と、おもしろおかしくテレビに顔を出して知名度があることとは次元が違う。

 バカとは勉強ができないことを指しているのではない。
 「人の想い」が、「自分の姿」が、
見えない人をバカという。

 バカが演じる笑劇ほどつまらない喜劇はない。
 劇場から帰る観客は不愉快なモノを見せられて傷劇となる。


2009年7月10日金曜日

漆黒の闇

 温暖化対策の具体案は提示されることなく、サミットが終わった。
 オバマ大統領はアメリカの間違いを認めたが、利益を追い求める諸国の賛同は得られなかった。

 結局は欲の皮の突っ張り合いと、どこかの首相のように自分の立場をカッコ付けようとした軽薄者の集まりでしかなく、国民・地球人無視の3日間だったと言える。

 数ヶ月前に日本の月探査機「かぐや」が月から見た「地球の出」の映像を送ってきた。
 漆黒の闇の中に、青く輝く地球が顔をのぞかせる瞬間、その闇は光を受ける。

 青く輝く夏の空を眺め、
 輝く自然を眺めながら、
 その外側は漆黒の闇だと意識する人は皆無に等しい。
 しかし
 地球が昼であろうと夜であろうと、
 地球を取り巻く薄皮の外は、
 漆黒の闇なのだ。

 月から眺めた「地球の出」の映像を見た時、
 どうしてこんな小さな星の中で、核だ内乱だ、儲けた、損したと争っているのが馬鹿げてみえた。

 どんな権力を持とうが利益を得ようが、この宇宙の時間の中では
ほんの一瞬の出来事でしかない。
 その一瞬の出来事の繰り返しによって、半恒久的な地球が輝きを無くしてしまう日は近い。


 宇宙には数えきれない星が在る。
 その中で生き物が暮らすのは地球だけだというのは、思い上がりにも等しいと思う。
 数多あってしかるべきだ。
 しかし我々が知る限り、
 身を焦がすことなく、漆黒の闇の中で青く輝いている星は地球だけである。

 このような利欲を突っ張り合っていると、
 近い将来、地球も沈黙の星となる。

 漆黒の闇を漂う地球星を見つけた他星人は言うだろう。
 この星にも生き物のいた気配があると.............。

2009年7月7日火曜日

ボランティア

 神奈川の独居老人家庭の安否をたずねて、巡回するボランティアグループが演劇によって趣旨を訴え仲間を集めていることをテレビが特集した。
 いかにも善意の集団のように聞こえるが、何か腑に落ちない。

 加入している商工団体からボランティア活動に参加するよう求められた。
 「ボランティアって何をするのですか?」
 「朝早く起きて町の掃除をしたり
  寝たきり老人を入浴させたり.....」
 「そんな活動はボランティア活動ではない
  そうした活動は役所の仕事
  役所の仕事をみんながやるから
  彼らは動かなくなる
  ボランティアとして社会活動をするというなら
  やるべきことは
  役所へ出向いて雑談に講じている者をみつけ
  首根っこを掴まえて町の掃除に出向かせること
  それならば
  ボランティア活動として意義がある」
 と言った。

本当のボランティア活動とは、「やるべき立場」の人がやることを手伝うのではなく、
役所のできないことをやることだ。


 数年前アメリカの地方空港で便を待っていたときのことだった。
 数人の高校生らしい女子のグループが入ってきて
プラカードの準備を始めた。

 どうやら私が乗ろうとしている飛行機で野球のチームが到着するらしく、
彼女たちはそのチームのサポーターであることがわかった。

 まもなく飛行機は到着し乗客が降りてきた。
彼女たちは歓声をあげてチームを迎え始めた。
 チームの最初に出てきたのはダウン症の少年たちであった。
 しかし彼女たちは少年の後に続く選手と同じ歓迎を、少年たちにも与えていた。

 このシーンを見た時「これが本当のボランティア活動だ」と思った。

 それはダウン症の少年たちに対するサポーターの対応ではない。
 チームが自分たちの一員として、障害のある子どもたちを加えていることに対してである。

 健常でない者にとって一番の憧れはスポーツ選手である。
 チームのメンバーに加えて一緒に行動することは、何にも勝る子どもたちへの励ましになる。
 これは役所ではできない。

 日本ではプロチームの、どこがこうした心ある活動をしているだろうか。
 チャリティと名打って集めた金を寄付しているのは聞いたことがある。
 しかし障害を持つ子どもたちは「何に幸せを感じるか」考えていない。

 冒頭の独居老人家庭を巡回するのも役所の仕事である。
 役所の福祉課へ出向いて様子を見てみるがよい。
 彼らほど時間を持て余している連中も珍しい。

 相談がくると福祉事務所へ連絡する以外仕事らしい仕事をやっていない。
 一般の市民がボランティアという的外れの活動をすればするほど、
 彼らは時間を持て余す。

 本当のボランティア活動とは
役所ではできない活動を続けることである。


2009年7月5日日曜日

余計なお世話

 選挙に向けて「資金的ゆとりがなくても希望者は全員大学に進学できる制度をつくる」ようアホウ総理じゃなかった、麻生総理は官房に指示したという。

 家庭経済が破綻して進学を取りやめた高・大学生が数万人でたときですら、政治は見てみぬ振りをしていた。
 国民のおかれた立場が見えず、自分の足下ばかり気にしていると、付け焼き刃的制度の大盤振る舞いとなる。
 セフティネットの各種制度、エコポイント制度、どれをとっても「人気取り」に終始し、国民の将来にどんな禍根を残そうともおかまいなし。

 こうした制度によって人気が戻ったと錯覚するご仁を「裸の王様」という。

 バブル破綻で、年間47千人と一気に増えた自殺者も、少し落ち着いて30,000〜35,000人で推移して約20年が経過した。
 30,000人以上とは市制の最低人口だ。
 毎年小さな市が消えていることになる。
 20年この状態が続いているということは、120万都市ひとつ消えているのと同じなのだ。

 なのに政治屋たちには将来的な計画がなく、官僚たちは保身しか考えていない。

 知事になる前に国政に色気を出し、自民党ににじり寄って袖にされ、方向転換して知事に当選した地鶏とマンゴーのセールスマンに、人気挽回に利用できると察すると、恥も外聞もなく色目を使い、待ってましたとばかりその誘いに乗るような人たち。
 口にしている言葉が空々しい。

 政敵のあら探しばかりにご執心で、国会を会期まで開催しようとする連中は、次回の選挙で落選させればよい。なぜなら国会とは何をすべきところかわかってないからだ。

 国民の生活を守る討論をするのではなく、仲間同士でののしり合うために1日数億円の無駄遣いをすることがおかしいと理解していない。
 そんなことに時間を費やすならば、自分たちのどこが悪いのか、「自己反省」をするべき。

 高齢化社会到来といいながら、高齢者が安心できる環境ができていない。
 年金制度でも嘘の上塗りを繰り返してきた。

 年金で生きられないこんな人生は嫌だと、入院をきっかけに安楽死を申し出ると、法規制によって断られる。死ぬこともできない。
 自殺をしようと思っても罪人扱いされ、残された家族が惨めな思いをする。

 表面、
 長生きをするように医療制度を整え、長寿を祝う素振りをしながら、生きるだけの年金の支払いはない。
 生きるに生きられず、死ぬに死ねないこの不思議な国日本。

 生き地獄とは、この国に暮らす高齢者の、5年後の有様とみる。

 一見善良面をした法律は必要ない。
 心のない決まりなんて、余計なお世話。

 高齢者といわれる人たちは、いまあなたが立っているその日本の土台を作る貢献をしてきた人たち。
 その土台に立って、築き上げた人たちを弄ぶと、必ずそのしっぺ返しがくる。

 それは、そうした対応を見ている次世代が、
「自分たちはそうした扱いを受けまい」と、社会全体のことではなく「自分だけ」のことしか考えなくなるようになり、社会が崩壊することによってである。

 もうその兆候は現実となってきた。
 政治屋がその先鞭を切っているから間違いないだろう。
 自分のことだけ考えて心にもないことを口にしても、聞いてるものは耳を塞ぐ、
 「余計なお世話」。

2009年7月3日金曜日

医者のことば

 友人Aさんが余命数ヶ月と 医者から宣告された
 しかしAさんには食欲があった

 奥さんが看病にいく度に 「うなぎが食べたい」「寿司が食べたい」という
 奥さんは少しの余命 願いを叶えてあげたいと
その欲求に応え続けた

 2ヶ月が経過した
 Aさんは「病人食は嫌だ 家に帰りたいと告げた
 奥さんは「最後は家で」とつれて帰った

 半年が経過した
 Aさんは仕事に復帰した
 医者は言った
 「私の見立てが間違っていたのではなく
  薬が合ったのだ」


 友人Bさんは ある朝起きようとして
突然激しいめまいと吐き気で動けなくなった
 救急車で運び込まれた病院の医師は
 「この病気は原因不明で治りません」
 と告げた

 Bさんは脱サラしたばかりで 家庭にはダウン症の息子がいた
 息子の将来のために金を残す手段として
自殺を考えた

 投身しようと病院の屋上に向かうが
身体が思うように動かない
 這いずりながら やっと屋上へ出る扉までたどり着いた
 そこには鍵が掛かっていた

 病室に戻る途中で
すれ違った見舞客が教えてくれた
 「その病気を治す先生が
  埼玉大学病院にいますよ」

 Bさんは転院を申し出 埼玉大学病院へ入院した

 4ヶ月後退院し
事業は中堅規模まで成長している


 私は10数年前 難病宣言を受けた
 全身の表皮が落ちて 生皮状態になっていた
 まるで「お化け」
 生きる意欲をなくした
 当然のように自殺を考えた
 外見上症状が抑えられているのは
中国の医師が教えてくれた治療法のお陰だ

 今は某大学病院の治験患者となりながら
治療法を見つける協力をしている


 医者の言葉は重い
 「治らない」と言われれば 失望するのは当然である

 しかしかいかぶってはいけない
 医者も神様ではなく 職業なのだ
 
 私は自らの体験や友人たちの体験から
 医者の言葉の捉え方を変えた

 医者が「治らない」といったら
 それは
 「私では治せない」と告白していることであると

 ガンが発病して死に赴く大きな原因は
「もうおしまいだ」とあきらめる本人の気持ちと
抗がん剤にあるといわれる

 病が悪化すると
医者は必ず「余命○○日」と絶望の言葉を告げるが
どんな言葉を聞いても その後に付け足すことだ

「だけど本人の生きようとする想いが
 何ヶ月でも何年でも症状の悪化を押さえることができる
 だから希望を持って努力しよう」


羨望とは うらやましい望みと書く
希望とは かすかな望みと書く
絶望とは 望みがとだえたと書く

待望とは 望みが叶えられるのを 待つと書く

2009年7月1日水曜日

できるかどうかが問題なのではない

 次期衆議院選挙では間違いなく自民党は負けるだろう。

国家財政の支出は歯止めをなくし、目先の保身しか考えず、次世代に負担を残すことを繰り返している国家が存続できる試しがない。


 消費をあおるエコポイントも私は一切利用しない。

 自分が多少得をしても、そのツケは子どもたちの世代にまわされるからである。

 親として最低限努力すべきことは、子どもたちの将来に負担を少なくすることだと思っている。


 自民党と何らかの関係があり、それによって少なからず利益のあった人たちは、野党に政権維持をする能力がないと、口を揃えて危惧する。


 どんなことであっても、どんな立場であっても、経験をするまでは「未経験」なのだ。

 未経験だからといって否定的に考えてしまうと、新たな能力は見いだせない。

 「未経験だからできない」との発言は一見正論に聞こえるが、その裏をかえせば、自分が守ってきた利益がなくなることに不安を抱いているにすぎない。


 その立場になったとき、周りが期待した能力が発揮できないとしても、「だから前の政権がよい」といっていれば、国体は老衰化するだけである。

 新しい政権を育てていくのも、国民の責任ではないか。


 昨今の自民党の言動から、国民の政治は微塵も感じられない。当初はこんな政党ではなかった。

 なぜこんな政党になってしまったのか。


 その理由は一党支配にある。

 長年続いた一党支配は、自民党こそ正義と思い込ませるに十分であった。

 その間違えた正義には、国民の声を聞く姿勢はなく、自分たちの言動すべてが正義と思い込んでいる。

 その思考が国民不在の言動となる。


 一党支配は社会主義体制だけにあるのではない。

 民主主義政権にもあることを見逃してはいけない。


 一党支配の国の末路を幾つも見てきた。

 日本も同じ道を歩んでいる。

 この歩みを止めることができるのは、政権交代以外あり得ない。



2009年6月30日火曜日

かすかな記憶

最近 どこかで目にした
「景気の回復には みんなが 少しの 贅沢をすること」

電車の中の 広告に あった
「昨日に クヨクヨ するより
 明日に ワクワク しよう」

30年近く前 イタリアが 破綻した
政治力では 回復ができなかった

経済を立ち直らせたのは 国民の力である
その 合い言葉は
アモーレ (恋して)
カンターレ(歌を唄って)
ボンジョーレ(美味しいものを食べて)

2009年6月29日月曜日

友人の笑顔が消えた

 携帯が鳴った。
 ことあるごとに助けてくれていた友人からである。
 「たまにはゆっくり飲みながら話そうよ」

 新宿の紀伊国屋書店の裏通りにある喫茶店で待ち合わせした。
 業界人と待ち合わせをするときに、一番わかりやすいところとして何年も利用している。
 この店を告げると誰もが「知ってますよ、最近行ってませんが以前よく利用しました」とかえってくる店だ。

 入ろうとするときに、出てきた客の声が耳に入った。
 「惜しいよね今週で閉店するのは......」
 席についてマネージャーに声をかけた。
 「今耳に挟んだんだけど閉店するのですか?」
 「そうなんです 長い間ご利用ありがとうございました」

 理由を聞くと、寂しげな笑顔を浮かべて「もう商売に疲れましたよ」

 けっこう繁盛し続けていたように見えた店も、実態はそうではなかったのかも知れない。

 様々な人の、喜怒哀楽を見てきたであろう「知る人ぞ知る店」が、またひとつ消えた。

 友人が少し遅れて入ってきた。
 笑顔であるが、自然さはない。
 「何か悪い話でもあるのですか?」
 電話を受けたときから、「何か」感じていた。

 彼は誰でも知っているマスメディアの大手企業で部長職にいる。
 平日の夕方に出かけてくることは、立場上無理があると思っていた。

 無理をしてつくっている笑顔のまま、
 「そうなんですよ 私の部署が廃止されました
  当分閑職になったんです」
 こう話すと、その顔から笑顔が消えた。

 3月に会ったときに、すべての部署で人員削減が行われたと聞いた。その流れの一環なんだろう。
この部署は彼が立ち上げたから、余計寂しさがあると推察する。
 不況アメーバは今や、街角から大手企業まで浸食してきた。

 国民の生活よりも、自分たちが選挙で有利になるために流す「時局的情報」で、いくら景気は底をついたと言い続けても、その現実は「友人の顔から微笑みを奪ってしまった」。

 彼のブログを見てみた。
 「眠れない日が続く」と告白している。
 無理して見せる笑顔は周りに振りまいているのではなく、自分を励ますためだと気づく。

 悩んでいるときこそ、眠らなければならない。
 なぜなら、眠ることによって思考の回路が回復できるから、プラス的考えになりやすいからだ。
 私も過去、生きる望みを失ったことがあった。
 しかしどんなに追い込まれても、その日は眠った。
 どうやって眠ったかって?
 それは、
 「明日になればきっと良くなる
  明日になるためには寝なければ」と思ってベッドに入った。

 どんなことでも、始まれば必ず終わりがくる。
 彼も部署を立ち上げたときから、終わりに向かって進み続けた。
 終わるのが嫌なら始めてはいけない。
 
 彼は、早く整理して再出発をするという。
 早く整理すれば、それだけ早く新しいスタートが切れる。
 間違いなく彼はまた、復活する。
 本当の笑顔が戻る日を、待つ。
 
 

2009年6月27日土曜日

芸人

 以前から不況時のお笑いといわれ、不況になるとお笑い番組が増える。
 嫌なこと、不安なことを笑い飛ばしたいと思うのが人の常ならば、当然の風潮かもしれない。
 漫才ブームと言われたのはオイルショックの頃であった。
 この頃は芸のある芸人が、庶民の敵である立場の人たちをなじってやりまかせ、観客の笑いをとったのである。
 その笑いには、強いアメリカをやっつける力道山への拍手と同じ意味合いがあった。

 元来大衆芸は、権力者や金持ちなどに虐げられていた庶民の想いを代弁することによって、人気を得ていた。
 しかし今の芸人といわれる人たちには、そうした芸がない。

 キャラクターを売り物にし、素人にも劣る宴会芸をさらすだけで芸人だと錯覚している。
 そして臆面もなく「もうダメになるだろう」と自嘲している。
 キャラクターは芸ではないから、すぐに飽きられて当然。

 一番悪いのは番組をつくる連中だ。
 彼らは一時でも受ける人がいれば利用し、受けなくなったら使い捨てて次を探す。彼らの刃に引っかかったら最後、使い捨てられて「前は人気があった」との思い出だけを生き甲斐に、浮かばれない余生を送ることになってしまう。

 彼らには番組を作る意欲もなければセンスもない。
 ましてゲイは知っていても芸を知らないから、ゲイ人ばかり探して登場させ、失笑をかうと受けたと誤解する。

 知恵がないから少し才長けた(芸に長けているのではない)さんまや紳介におんぶにだっこ。
 彼らは自分が視聴率を上げていると錯覚し、独善的に出演者を選ぶから、芸のない芸人は、芸を磨くよりもゴマを擦り続ける。
 番組中でもあからさまにやるから品がない。擦られる側も思い上がっているから「本番中にみせるものではない」と諌めることはしない。

 日本の不況はもう20年も続いている。ということは、芸のない芸人がテレビで下世話な話をして失笑をかいつづけ、20年も経ったのだ。

 ごたごたと御託を並べたが、芸のない連中が見たくないなら見なければよいこと。
 ここで言いたいのはふたつ、
ひとつはアホを売り物にしたクイズ番組はアホキャラが面白いと思っているかもしれないが、「いじめをみて」楽しんでいる。
 すなわち番組の紳介などの司会者は、「こんなこともわからんのか」と世間から蔑まされた自分に優越感を持ちながら、アホを弄っているに過ぎない。こうした番組に正当性を与えた瞬間から、苛めは正当化される。
 苛めの正当化が、さもヒット番組であるかのような位置づけになっていて、苛めをなくそうと言う方が無理ではないか。


 あとひとつは、元来芸人は反体制である。その芸人が知事や政治家を目指す等、体制側になること自体、資質を疑わざるを得ない。

 いみじくも石原都知事は言った、
 「宮崎県知事は芸人である」

 体制側を批判し、大衆の代弁であり続ける者が芸人として大成する。



2009年6月25日木曜日

ドンキホーテと道化師

 東国原氏の発言が物議を呼んでいる。
 自民党の古賀選対委員長が衆議院選挙の出馬を打診した席で「自民党総裁候補としてなら受けてもよい」と言ったという。
 東国原氏は政治家ではなく平成のドンキホーテと捉えているから、何を発言しようがまともには受け取らないが、道化師(ピエロ)役を務めた古賀氏や仲間の道化師たちはいたくご立腹の様子。
あの憮然とした表情を見る限り、道化師は道化役を演じたのではなく、銀幕のスター(古い言い方だな!でもやっていることが古すぎるから、一番ぴったりとくる表現)と錯覚して口説いたことがうかがえる。

 口説けると思い上がった自民党も、大恥かいてピエロ役。
 その結果を聞いた自民党の総務会長や丁髷議員も、真剣になって怒れば怒るほどピエロになる。

 しかし頂けないのは、それぞれの役者が「ピエロとは何ぞや!」という本筋を知らずに演じてしまったこと。
 ピエロとは人の憂い・哀しみを笑顔で表現する最高のパントマイム演者であって、ピンぼけピエロには苦笑しかできない。

 この話題はこのやり取りが問題なのではない。東国原氏が立候補しようがしまいが、体制に何の影響もない。
 「問題なのは知事を口説いた」ところにある。

 元来知事は、内務省から出向してその役目を果たしていた。中央政府の行政をそのまま遂行する立場にあった。だから地区住民の意向等関係なく、中央政府の意向で知事は入れ替わっていた。しかし今は選挙によって地区住民が選出している。

 その知事に対して住民の意向に関係なく国会への出馬を要請するのは、中央政府においては「地区住民が選出」したという意識がないこと、そして住民の論理よりも政党の論理を優先していることを露呈した。
 これは自民党だけではなく、その他の政党においても言えることである。

 知事側においても同じことがいえる。知事として選ばれその職についた以上、優先すべきは選挙民との約束であり、途中で投げ出して国会へ立候補するのはスジが違う。そうした行動をとる人が当選したとしたら、それは選挙民が無責任なのか、バカなのか、はたまた利権で結びついているのか、いづれにしても無意味な選挙を繰り返していることになる。

 どうも国会に憧れる政治屋が多いらしいが、身の程知らずというか、権威思考というか、よくわかっていないというか、政治手腕がないのを見抜かれまいとするのか、国会議員よりも地方の首長の方がず〜〜っと権力があることがわかっていないらしい。

 どんなドンキホーテでもピエロでも、対外的には大口をたたこうとも、国会内では賛成か反対かで手を挙げるだけ。何の権力も持たない。
 最高権力者と言われる総理大臣であっても、分不相応にその地位に就こうものなら、右往左往するのが関の山。
 しかし地方の首長になると知事でなくても、市長町長であっても、その権力は国会議員の比ではない。

 国会議員から知事になった人は、この「うまみ」がわかっているから、その地位を捨てて再び国会を目指そうとはしない。
 中には滋賀県知事から国会議員になり政党を立ち上げた武村氏のように権力ぼけして知事から国会へいくが、彼は元々自治省の役人。
ドンキホーテを演じている人と同じく、社会音痴で名誉欲の強い成り上がりものと同じ。

 成り上がりを目指すということは、まだ成り上がっていないと認めていることになる。
 絶大な権力の座を与えた県民に対し、これほど失礼な対応はないだろう。

 知事は選挙民が選出し、選挙民に対してはいかなる権力であっても、その決定を無視することができない。
 今回の件を肝に銘じて、成り上がった行動は慎むことだ。

 なんて真剣に言わない方がいいか!
 なんせドンキホーテとはな垂れピエロのやりとりだもんネ!

2009年6月23日火曜日

不要の金喰い

 総務大臣を辞めた鳩山氏の元気が良い。
 人間としての資質の是非はこのさい置いておくとして、彼のあの単純さに拍手を送る。
 「一度は大臣を」と政治屋たちはその機会を狙っているらしいが、様々な作戦があるにしても、あの未練のなさが、したたかで愉快だ。

 大臣と言えば少し前の話になるが、
菅直人氏が厚生大臣だった頃、薬害エイズ訴訟に厚生省が負けたのを受けて、被害者に土下座して謝ったことがあった。
 当時マスコミは潔さを讃え、有権者は「さすが」と拍手を送っていたが、私はあの態度に理解できなかった。
 なぜなら大臣とはどんな立場だと思っているのか疑問を持ったからだ。

 どうも本人もマスコミも、省のトップに君臨するのが大臣、その省の代表であると思っているらしい。

 大臣という表記は大きな臣と書く。「臣」とは部下や家来を表す。「大」とはその代表的立場を表す、
 すなわち、大臣という表記は天皇に対する国民の代表を意味する。

 現憲法下を調べてみたが、第五章「内閣」においても、大臣の仕事についての規定が大まかにしか触れられていないので、きっと明治18年に発布された太政官達第69号の、

 (1) 太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこと


を元にして、現憲法に残された職業的特権なのだろう。

 しかしそんなことはどうでもよい。

 いま問題提起しているのは、省を代表する者が大臣であるとの解釈である。


 言葉の意味合いから言えば、国民を代表する立場で省に乗り込み、管理掌握するのが大臣ではないのか。

 本来の意味を知ってか知らずか、それぞれの省にはトップ職として事務次官なる立場がある。事務次官はまぎれもなくそれぞれの省の最高責任者である。

 なのにその省内において、永年に渡って行われてきた不祥事が発覚すると、なぜ大臣が土下座し、辞職しなければならないのか、全く理解できない。


 国民の代表として大臣の地位に就いたならば、その職権でもって省内の不祥事を公のものとすることが、職務の遂行になるのではないか。

 不祥事が発覚したら、大臣は「わしが暴いた」と胸を張ってればよく、事務次官を足下にひれ伏しさせて国民に謝罪させるべきである。


 聞くところによると、民主党が政権を取ったら短期に止めざるを得ないように仕向けると、中央官庁の官僚は言っているらしい。

 彼らはちょぼちょぼと不祥事をさらけ出し、その都度大臣を辞職に追い込み政権そのものが維持できない無能集団との工作をしようとしている。


 省の不祥事をあぶり出せない大臣ならば、必要がない。

 余計な金喰いの特権職なんて権威ばかりで、国会の赤ジュータンよりも意味のないものだ。


 大臣は省の代表者として、省内を守る発言をするものではない。

 それは姑息な事務次官がやること。大臣は省内の不祥事・国民にとっての不利益をさらけ出すのが仕事である。

 なぜなら大臣とは臣(国民)の大(代表)として省を監督する立場にあるからだ。


 今夜国交省の事務次官が「公用車購入談合」で謝罪した。当たり前だ!

 一番談合の多い公共事業の発注元である国交省自体が、OBの渡り先と談合しているようでは何を信じれば良いのか?

 信じるものがバカをみる社会であることを、ことあるごとに官僚は教えてくれる。

 「優秀な人材」と讃えられる官僚がごまかしや嘘をつくことほど嬉しいことはない。

 それは国民の嘘や誤摩化しを奨励してくれているに等しい。


 こんな幸せな国に生まれたことを喜ぼう!

 そしてみんなで誤摩化し、騙し合い、楽しく生きよう!

 人を騙すほど楽しいことはない!!


 

2009年6月22日月曜日

裸の王様

 20年前、中国では天安門事件が起きた。
 中国共産党に反する若者が抗議行動を起こしたとされているが、彼らは共産主義に反対したのではなく、一党独裁政治に反対したのである。
 この事件に対しアメリカや日本は人権侵害だとして見直しを求めているが、我が日本はどうなのだろうか。 

 日本は自由民主主義国家といわれ、自民党が長期政権としてその座に居座っている。
 そしてその立場が危うくなると対抗する勢力に対し官憲に調査を促し、同じような、またはそれ以上の不祥事があるであろう自らを誤摩化し正当化しようとするやり方は、旧ソヴィエトや社会主義政治に数多ある、独裁政治の典型だと気づかないのだ。

 北朝鮮では政権の座を一家族で独占し、今また三代目がその座につこうとしている。
 こうした政権の委譲は民主主義ではないと問題化している日本において、代議士の特権を子どもに譲ることについては、権力者は異論すら受け付けようとしない不思議な感覚。
 これも北朝鮮の政権委譲となんらかわることはないと思うのは、私だけだろうか。

 中国の一党独裁は批判し、北朝鮮の政権委譲も批判しながら、自らはさもあらんと正義面をしていても国民の目にはその独善的な考えが見通せるだろう。


 経済が底をついた、上向いたと報道されているが、これもまもなく行われる選挙に対する現政権側の宣伝であることはここで記すまでもない。
 太平洋戦争中食料や武器の補充がなく逃げ回った前線の兵士を、時の権力は「転戦」と報じて国民を騙し続けた。
 敗戦後日本は「変わった」と言われているが、この64年間、国民を騙し続ける姿勢はなんら変わっていない。

 長年進められていた移民政策も、官僚と手を組んだ移民業者が国民を騙して海外に放り出したまま無責任を決め込み、昨年違約を訴えた被害者に対しても、官僚はまともにその非を認めようとはしない。

 バブル経済の破綻から2年が経過した頃、経済企画庁は船田長官の言葉をして「経済は底をついた。これから順調に回復する」と言わしめた。この言葉を信じたバカというか真面目な新卒者は「来年になれば思い通りの就職ができる」と就職浪人を決め込んだ。しかし現実は毎年悪化する一方で、彼らは就職の機会を失ってしまった。
 その時代に騙された人たちが「フリーター」の言葉で象徴される人たちである。

 「フリーターが日本の将来を危うくしている」とまことしやかに口にする官僚や政治屋たちは、自らの嘘がその骨幹にあることに気づいていないのか、気づくほど利口ではないのかもしれない。はたまたどんなことにも、責任は自分にあらずと決め込んでいるのか。

 昨年の4月、時の官房長官は「車が減れば地球温暖化に貢献できる」ともっともらしい言い訳をして、車の暫定税率の課税期間を延長した。それから1年も経たない今年の初春には新しい官房長官が「高速道路の料金を安くするからどんどん走ってくれ」という。
 なんなんだ、この節操のなさは!

 これだけ度々騙され続けていると、どんなバカな国民でもその嘘を見抜くだろう。
 政治屋や官僚がまだ国民を騙し続けられると思っているとしたら、一番バカなのは権力者だといえる。

 官僚の待遇改革を進めると「優秀な人が集まってこない」と、発言をした政治屋がいたが、「優秀な人材」とは、何に対して優秀なのか理解に苦しむ。
今までの例を振り返れば、「国民を騙す術に優れている」「自らの利権を守る術に優れている」。こんな人材は優秀なのではなくて、国を破綻させる売国奴に等しい。

 嘘に長けた権力者に教えてあげよう。
 経済は当面良くなることはない。経済は供給と消費のバランスが保たれたとき発展する。消費力が弱まり続けていて、底をつくことはない。

 こうした発言を繰り返す権力者を「裸の王様」という。
 自らの姿が見えない哀れな人間ということだ
 本当の自由民主主義とは何なのか、独裁主義とは、権力委譲とは....。
 本来の意味をはき違えて正当化しているつもりでも、国民は冷静に見極めている。

 日本の自由民主主義を破壊したのは自民党である。