2009年8月5日水曜日

マニフェスト

 選挙を控えて各政党はマニフェストを公表した。
 マニフェストとは公約である。

 政権政党であった自民党は、新たなマニフェストを公表する前に、前の選挙時に掲げたマニフェストについて、その実行を総括するのがスジである。
 言うだけなら自民党が民主党を攻撃する言葉を借りるまでもなく、誰でもいえる。
 政権を担った政党に継続を願うか、お引き取り願うかは、
次のマニフェストの中身よりも、前のマニフェストの実行、すなわち約束を守ったか否かにかかわってくる。

 永く都知事に居座った鈴木俊一は、その席を追っ払った青島幸男が、公約に掲げた臨海埋め立て地開発開発中止を実行しようとした時、「公約とは守るものではない」と公言した。
 
 自民党支配の都知事が「公約は守るものではない」と発言したことを覚えている人は少ない。過ちは「忘れることによって繰り返される」。

 今回初めて幾つかの経済団体等が、前の選挙で自民党が公表した公約の検証を行った。
 その結果を聞いたヒョットコ総理は、
「各自がそれぞれの基準で判断したこと」と膨れっ面。
 第三者が検証する前に自らが総括するのが、まともな人間のやること。

 良かったね! またひとつ我々に言い訳の仕方を教えてくれた。
 時を同じくして陪審員裁判もスタート。
 いつあなたが被告席に座るとも限らない。
 死刑の宣告を受けるやも知れない。
 そのとき検事や裁判官に向かって、厳かに話そう。
 「それはあなたの基準で判断したこと
  私には関係ない」

 日本をますます住みやすい国にしてくれるヒョットコ総理の
 引退を惜しむ
 
 合掌

2009年8月2日日曜日

ことば

 言葉があることによって
 自分の思いを伝えることができ
 相手の思いを知ることが できる

 しかし言葉は
 誤摩化しを伝えることも できる

 人と人との関係に
 言葉が無かったとしたら
 誤摩化すことは できない

 まだ外国人が自由に国内を散策することができなかったころ、私は中国の片田舎を歩いていた。共産主義を否定する私に偶然にもできた中国政府高官の友人による取り計らいであった。

 暑いので駄菓子屋のような店に入り、日本語で「ジュースちょうだい」と語りかけながら、ショーケースの中にあったジュースの瓶を自分で取り出した。
 空いている方の手で小銭を握りながら、また日本語で「幾ら?」と問いかけると、店の女主人は小銭から代金を取った。

 店の外の柳の木の下には縁台が置かれ、若い女性2名と初老の男性が座っていた。私はその前に立ち、また日本語で「私も座らせてよ」と言ったら、横へつめて隙間をつくってくれた。
 それから小1時間、共通の言語を持たない彼らと私は、会話を楽しんだのである。

 もちろん私は最後まで日本語以外使わないし、彼らは北京語以外話さない。
 しかし互いに、
 「こいつは悪いやつじゃない」と理解し合っていた。
 ポケットから取り出して勧めてくれるひまわりの種も美味しく頂いた。
 
 1+1=2と言ったような明確な会話は無くても、互いに心を通じ合うことはできた。
 その、
心の交流には誤摩化しがないから、友人となることができたのだ。


 まもなく衆議院選挙とやらで、互いが自分の正当性を「言葉」で訴えている。
 言葉が多くなればなるほど、そこには誤摩化しが生まれる。

 誠意には言葉はいらない。
 

 多くの国で違った言語を使っているのも、互いの言葉を理解するためではなく、
心で会話することを神様は願っているからではないか。

 なぜならそこには「誤摩化し」がなく、誠意でつながる地球社会ができる可能性があるからである。


64回目の記念日

 まもなく64回目の記念日になる。
 この記念日を日本では「終戦記念日」という。
 しかし日本が戦争をしていた相手国では「戦勝記念日」という。
 国際的には日本での表記は終戦ではなく「敗戦記念日」とならなければならない。
 なぜ敗戦日を終戦というのか。
 それは昭和天皇の言葉による。

 64年前の8月15日、昭和天皇は国民に向かって「堪え難きを耐え忍びがたきを忍び」戦争に負けたことを認めるよう詔(みことのり)を発した。
 その閣議で
 「国民を悲惨な状況に追い込む戦争は
  今日でもって終わりにしなければならない
  二度と戦争をしてはならない」
趣旨の発言をされ、その言葉をもって「終戦」と言われるようになった。
 しかしこうした表記には日本人独特のあいまいさがあり、そのあいまいさによって近隣諸国との感情的すれ違いが64年間も続いている。

 数年前テレビ朝日の時事討論番組「朝までテレビ」で、ギャラリ−で参加していた学生が「近隣諸国が何年経っても日本の戦争責任を口にするのはおかしい。いつまで謝ればよいのか」と発言しているのを聞いたことがある。
 「謝る」のは期限の問題ではなく、心の問題であり、相手が許すと思ったとき、初めてその謝罪は認められるのだ。

 ではなぜ、何かある毎に「日本は戦争賠償を行っていない」といわれるのだろう?
 それは冒頭に記した「敗戦」を「終戦」と認識しているところにある。

 日本政府は「敗戦」と事実を認識する勇気がないために「戦後賠償」という言葉を避け、「経済支援」を続けてきた。意識の中では「戦争被害を与えた埋め合わせとして経済支援を行っている」と位置づけて、戦後賠償以上の支払いを続けている。
 しかし金額で幾らになろうとも、それは「経済支援」であり、「戦後賠償」ではない。

 こうした政府の「ことなかれ主義」が、「何年経っても賠償をしようとしない国日本」となって、国際問題が表面化するごとに戦争責任に言及されることとなる。

 このままの状況では戦後何年経過しようとも、日本は国際社会の中でリーダーとなることは不可能だ。

 今からでも遅くない。
 終戦記念日を敗戦記念日と意識し、戦後近隣諸国に支払ってきた「経済支援」を「戦後賠償であった」と認めよう。それが次世代が、近隣諸国と仲良くする下地作りになることは間違いない。

 自らの欠点やミスを認めないものは昇華できない。
 ヒョットコ総理の言動を見ていればわかりやすいではないか。
 昇華する努力をしない人に期待するか?

 日本国民がヒョットコ総理に抱いている思いと同じ思いを、近隣諸国は日本に抱いている。


 昭和天皇は政治に利用された。
 満州国建設に関わった父から、「軍部に反抗するとたとえ皇帝であろうが命は保証されない」と聞いたことがある。
 昭和天皇も同じような境遇であったことは察して余ある。
 天皇家は政治に利用してはいけない。
 なのに、
 町村某という政治屋は、衆議院の解散時期が取りただされているときにインタビューに答え「カナダを外遊中の天皇陛下にご心労をかけてはならないから時期は遅れる」とのたまった。

 この馬鹿は平成のこの世において、自分の都合を天皇を引き出して正当化しようとする。
 こうした馬鹿が国会にいることが、天皇陛下のご心労となる。

 このご仁、どんな派閥の長か知らないが、暫定税率延長の際には「車が減って温暖化対策になる」といいながら、その半年後は高速道路の料金を安くするからどんどん出かけて欲しい」という。

 馬鹿がノホホンと生きていられるのも、戦争で犠牲となった若者のお陰であることを忘れてはならない。

 戦地で死に赴いた若者の多くは、戦闘に倒れたのではなく、戦地での食料不足による餓死であった。
 64回目の敗戦記念日は、形式的な式典を行うのではなく、
彼らの無念さを忘れないために、せめて1日だけでも飲まず喰わずで喪にふくそう。
 毎日生産量に近い大量の食物が捨てられている日本の礎は、
 戦地で餓死した多くの若者の悔しさで成り立っていることを
忘れないために。

合掌