自分の思いを伝えることができ
相手の思いを知ることが できる
しかし言葉は
誤摩化しを伝えることも できる
人と人との関係に
言葉が無かったとしたら
誤摩化すことは できない
まだ外国人が自由に国内を散策することができなかったころ、私は中国の片田舎を歩いていた。共産主義を否定する私に偶然にもできた中国政府高官の友人による取り計らいであった。
暑いので駄菓子屋のような店に入り、日本語で「ジュースちょうだい」と語りかけながら、ショーケースの中にあったジュースの瓶を自分で取り出した。
空いている方の手で小銭を握りながら、また日本語で「幾ら?」と問いかけると、店の女主人は小銭から代金を取った。
店の外の柳の木の下には縁台が置かれ、若い女性2名と初老の男性が座っていた。私はその前に立ち、また日本語で「私も座らせてよ」と言ったら、横へつめて隙間をつくってくれた。
それから小1時間、共通の言語を持たない彼らと私は、会話を楽しんだのである。
もちろん私は最後まで日本語以外使わないし、彼らは北京語以外話さない。
しかし互いに、
「こいつは悪いやつじゃない」と理解し合っていた。
ポケットから取り出して勧めてくれるひまわりの種も美味しく頂いた。
1+1=2と言ったような明確な会話は無くても、互いに心を通じ合うことはできた。
その、
心の交流には誤摩化しがないから、友人となることができたのだ。
まもなく衆議院選挙とやらで、互いが自分の正当性を「言葉」で訴えている。
言葉が多くなればなるほど、そこには誤摩化しが生まれる。
誠意には言葉はいらない。
多くの国で違った言語を使っているのも、互いの言葉を理解するためではなく、
心で会話することを神様は願っているからではないか。
なぜならそこには「誤摩化し」がなく、誠意でつながる地球社会ができる可能性があるからである。
1 件のコメント:
なるほどですね。
「心で会話するために、さまざまな言語がある」
おっしゃるとうりですね。
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